説教要約(10月)

2018年10月28(日)  説教題:「病と信仰」 聖書;ヨハネによる福音書11章1~16節

 信じていれば、病気にならないと思いがちです。でも、本当にそうでしょうか。信じているとは健康を保障するものではありません。どちらかと言えば、病気になってこそ、その意味を深めることになります。
 ラザロはイエス様にとって家族のように大切な人でした。何度も、町外れのラザロの家に足を運んだ様子が書かれていることがそれを証明しています。そのラザロが病気になったという知らせを聞いたのです。
病気になれば顔を見たいと思います。そのように、イエス様もラザロを見舞いたいと思いますが、当時、ユダヤ人たちから命を狙われる状況にあって、目立った行動は慎むべきだという意見も周りから出ていました。
 病気の報を聞いてから二日間そこに滞在したとありますから、イエス様の身を案じて弟子たちも引き留めたかったのでしょう。しかし、友のために命を捨てること、それこそが愛であることを証明するためにイエス様はラザロに会いに行く決心をされました。
 病気になれば顔を見たいと思う反面、では、自分が病気だった場合を考えます。出来ればかっこ悪い姿を見せたくないと思いますし、迷惑をかけたくもありません。病気に悩む姿は信じていることとは程遠いとも思います。
 しかし、「病が死で終わることはない」という聖書の言葉は意味するのは、病の中でこそ、信じることが深められ、より強く神に希望するようになるのです。そして、その希望して生きた姿は見守る者にも力となります。
 原石が磨かれて宝石になるように、信じる思いも病の中で磨かれていきます。病気に不安する姿、死を前に戸惑う顔、行き場のない涙。その1つ1つが生きたいというメッセージであり、神さまへの問いであり、祈りなのです。
 本当に信じているからこそ、弱い人間であることを認め、神さまにただ頼るしかないことを知るのです。病とは、その弱さの中に入ることであり、弱さとは共に生きる準備であり、神さまと共に生きる練習なのです


2018年10月21(日)  説教題:「幸いを見つけよう」 聖書;マタイによる福音書5章1~12節

 「心の貧しい者は幸いである」という言葉を聞いて矛盾を感じてしまう方が多いように思います。幸せとは豊かで満たされているからだと漠然とイメージしているからでしょう。
 幸せでありたいとはすべての人が願うことですが、一方で、では何をすればいいのかと言えば分かりません。待っていればやって来るものでもなく、誰にでも平等にあるようにも思えないからです。
 気になるのは「心の貧しい者」という言葉です。他の福音書では単純に「貧しい者」と書かれています。確かにイエス様の近くにいた人々は貧困で苦しんでいる人が多かったからです。
 マザー・テレサが日本に来た時に、この国にも飢餓あると言ったそうです。また次のような言葉も残しています。「この世界は飢餓に対する食べ物よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです」
 「心の貧しい者」という言葉は、正に、孤独に苦しみ現代に向けられたのであり、キリストは食べ物のことで頭がいっぱいになっている時代に、既に、人間の内面を見ていたのでしょう。
 幸せと不幸とは紙一重のようです。一人では見えないことに、もう一人の言葉によって気付くのです。そうして、不幸の中に幸せが見つかるのです。幸せとは、苦しみがないことではなく、それを乗り越える体験にあるのです。
 そうであれば、幸せを見つけに行くために、寂しく過ごす方の所にへ、病気の方の所へ、悲しみに暮れる方の所へ、行ってみるのが良いのかもしれません。思わぬ恵みがそこで待っているはずです。

2018年10月14(日)  説教題:「小さな嘘、大きな痛み」 聖書;マルコによる福音書14章66~72節

 嘘をついたことがあるでしょう。それが大きくても、小さくても、私にとっては重大なことです。なぜなら、それを打ち明けられないなら、私の中で残り続けるからです。
 同じように嘘をついた人がいました。今でも聖書中で慕われるペトロさんでした。彼は、イエス様が十字架にかかって死ぬ前、心配になってイエス様の後をついていきました。
 イエス様が裁判にかけられる頃、ペトロは周りの人からイエスの仲間ではないかという質問を受けて、イエス様なんか「知らない」と否定したのでした。
 その出来事は彼自身しか知らない出来事でしたが、なぜか聖書に載ることになりました。ペトロが後になって反省し、それを大きな痛みとして告白したからです。
 イエス様との最後の場面で「知らない」と言ってしまった弱さ。それは私たちの物でもあります。もし、その人が人生最後の時であったとして、いつも、全力でその人のことを考えているかと言われると不安になりますね。
 ペトロがこの嘘をついたことを後の世代に書き残したのは、自分の痛みから反省し、どのような時も、イエス様を思い出して、誰に対しても、心を込めて尽くすためだったと思います。
 私たちの命は神さまの手にあります。だからこそ、今日は最後からしれないと思いつつ、最後だとしても、良い別れが出来るように、心を尽くして1つ1つの小さなことに励みたいと思わされました。

2018年10月7(日)  説教題:「福音の前進」 聖書;マルコによる福音書14章53~65節

 今日は、世界聖餐日を迎えました。全世界に広がるキリスト教教会は、国家や民族の違いはありますけれど、今日、同じキリストを覚えて、同じパンとぶどう酒を分かち合っています。

 世界の果てにまで広がりつつあるキリスト教の始まりは痛々しい十字架でした。そして、その十字架による処刑が決定されたのが、今日の聖書に出てくる裁判です。

 イエス様を罰することになったこの裁判は異例ものでした。裁判の情景を見て見ますと、大祭司の庭では焚火をしていたとありまして、この時期の気温を考えても、夜だったと想像できます。

 一般的に裁判は昼間に行われますが、突然に行われた裁判でしたから、そこでの証言もバラバラだったと聖書は書き残しています。とりあえず、有罪と言うものだけが決まっていた裁判だったからです。

 何よりも、判決を引き出したのは証言ではなく、その場でイエス様が発言した言葉からでした。上げ足を取るかのような成り行きに呆れてしまいます。もし、この裁判の場所でなかったら、その言葉も人に感動を与えたものだったでしょう。

イエス様は「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれてくるのを見る」と言われました。この地上で愚かな人間の計画が進んでいたとしても、神の計画は必ず起こるという希望です。

今、私たちの周りはそれほど幸せで埋め尽くされているわけではなく、政治や社会に問題が多くあります。それでも、見えないところで神の言葉が動き、福音が前進していることを希望にしなければ、私たちは何を将来に見ることが出来るのでしょうか。この見えない福音の前進に、ただ、希望しているのです。