2018年1月28日(日) 説教題:「成熟する時まで」 聖書;マルコによる福音書4章1~9節
イエス様は神の国について、たとえ話を使ってお話することが多かったようです。それは聞き手が労働者たちであり、学問を知らずに育った人たちばかりだったのも理由として挙げられるでしょう。
イエス様はよく植物を例に挙げてお話をされていました。それは、救いとはすぐに完成することではなく、成長の中で人間が成熟することが必要だということなのでしょう。
種とは神の言葉を意味します。それらは様々な条件の土地に落ちて、それぞれの成長をします。しかし、この言葉で誤解してはいけないのは、人間を色分けして救われる人とそうでない人を見分けるということではありません。
わたしたちが神さまと出会って信じようとする中で、良い時もあれば悪い時もあります。それこそ、良い土地に落ちてまっすぐ信じようと思う時もあれば、そうでない時があることをたとえは教えてくれています。
コリントの信徒への手紙3章7節には「成長させてくださったのは神です」と書かれてある通り、どのような出来事の中にも、問いかければ神様が答えて下さることを信じること。それを続けることが成熟する時なのです。
成長とは見えない部分が多いですが、生きている限り、私たちは様々な出来事に向き合いながら、成熟へとゆっくり進んでいます。もし、その希望を捨てなければ、待ち続ける中で、意味を教えられ、生きる力に変わる時が来ます。
成熟するための栄養には言葉では表現できない苦しみがともないます。十字架がそうであったように、苦しみの中で自分の内側が崩されますが、そこに神の言葉が深く根差す機会でもあることを覚えておきたいと思います。
2018年1月21日(日) 説教題:「神様の手をにぎって」 聖書;マルコによる福音書1章14~20節
イエス様が神の子として活動されたのは、生まれてすぐではなく、おおよそ30歳を過ぎた頃だと言われています。その初めに語ったのは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言う言葉でした。
「時は満ち」というのには2つの意味があります。新約聖書が書かれたギリシャ語には、「時」を意味するのは「クロノス」と「カイロス」でした。クロノスは時計の針が刻むもので、「カイロス」は一回限りの重要な瞬間のことです。
まず、クロノスと言う意味で考えてみますと3つの要因がありました。1つはローマによる平和、2つに道路の整備、3つに言語の統一。これらがこの時代に整ったことで福音が広がる環境が整っていました。
そして、カイロスと言う意味では、旧約聖書最後の預言者マラキから400年近い空白期間がありました。つまり、苦しみの時は満ち、神に求める時が満ちたということだったのです。
預言者マラキから400年もの間、神の沈黙に対して祈りが続けられていました。既に絶望した人は神が遠く離れていったと思ったでしょうが、イエス様は「神の国は近づいた」と言われたのです。神さまは側におられたのです。
400年にわたる空白期間、神の沈黙は「拒否」ではなかったのです。「拒否」ではなく「静かな了解」だったということです。どのような言葉も人を傷づけるような絶望の時に、沈黙は相手を受け入れる1つのコミュニケーションになるのです。
福音とは、神様が近くにおられて見守っていると知ることです。神さまから離れているのではなく、神様が近くに今もいることを知ることです。神様はあなたが十分に苦しみ、祈ったことを知っておられます。
聖書から差し伸べられた手をつかんでみましょう。人生の空白期間を乗り越えて新しい1ページを始めるために神様の手をにぎって進みましょう。
2018年1月14日(日) 説教題:「洗礼と言う体験」 聖書;マタイによる福音書1章9~11節
既に過ぎましたが、1月6日は公現日(エピファニー)となっており、イエス・キリストが神の子として活動を始められた日と定められています。洗礼(バプテスマ)を受けることがその活動の初めだとされています。
イエス・キリストが洗礼を受けられたことは大きな疑問として残りました。なぜ、罪深い人間と同じく洗礼を必要とされたのかということに納得のいく説明が見つからなかったからです。
洗礼を受けた理由として、聖書の中ではイエス様ご自身がそう求めたからだと簡潔に述べられています。神が人間になる以上は、人間と同じ罪深さをも負うことになるのかもしれません。そのような大きな犠牲こそ、神の決意そのものだったです。
異邦人伝道を進めたパウロはローマ書5章で洗礼について考えています。水の中に沈むとき、イエスが受けた十字架の死を体験し、水の上に上がるとき、イエスと共に復活して新しい命へと変わるということを書いています。
私たちは生きながらにして死を感じ、死を求める時さえあります。しかし、命を絶つことは悲しいことです。だからこそ、洗礼は死を体験し、同時に生きる意味を考え直す体験を与えるのです。私の命ではなく、与えられた命として。
私たちは生きることとは命をつかみ続けることだと考えていますが、洗礼と言う体験は命をその手から離すことを教えています。命は自分のものではないという新しい事実を前にして生きる姿勢が変わっていくのです。
病気か、事故か、命の灯が消えそうになって生きることを考える機会を得ることは人にとってそれぞれ違うでしょう。もしかすれば、幸運にもそういった出来事に遭わずに済むかもしれませんが、それが本当に幸運なのかは分かりません。
洗礼という体験は、命の最後を見つめる中で今の命をより輝かせるために見ている世界を変える体験なのです。より大きな視点で小さな自分を見つめるのです。
2018年1月7日(日) 説教題:「新しい年、新しい言葉」 聖書:ルカによる福音書2章41~52節
2018年になりました。新年を主に感謝いたします。この一年も神様がそれぞれに恵みを計画して下さると信じています。どうぞ、良い出会い、良い働き、良い御言葉が与えられますように。
今日は聖書にはほとんど記載されていないイエス様の少年期について書かれています。救い主となる方がどのような成長を遂げていったかはとても興味深いものです。そして、私たちにも学ぶべきことがあるように思います。
イエス様が12歳の時に起こった出来事です。ユダヤ人たちは風習として12歳になると神殿に集まって成人式を行います。成人になる子どもたちが集まって聖書を朗読する祭りが今でも続けられています。
善悪を知ることは大人になる条件の1つですが、聖書の時代にはそれは聖書を読むことでした。聖書を読んでそこから何が正しく、何をするべきかを知ることが出来る、それが大人になることでした。
その儀礼を終えたイエス様は更に神殿に残って学者たちと学びを深めたようでした。これから生きる中で必要な言葉を手に入れるために、神の家で聖書に学ぶことを求めたのでした。
神の子だからと言ってすぐに必要な言葉が与えられたのではなかったようです。イエス様でさえ、儀礼の後も居残りして聖書から学ぼうとした姿を見てある意味ほっとします。そして、聖書に聞き続ける姿をそこから教えられます。
新しい年になったと言っても、何が新しくなったのか分かりません。ただの気分転換のようにも思えます。しかし、時を支配される神さまが私たちに時をふりかえり、時を新たにして生きる機会を与えて下さっているのだと思います。
過去を振り払いながら、新しい自分に少しでも変わっていけるよう希望しながら、この年を歩み続けるための言葉がそれぞれに与えられるように祈っています。