説教要約(9月)

2017年9月24(日)  説教題:「祈りの手になって」  聖書:詩編71篇9~19

924日は敬老祝福合同礼拝でした。
 どのような時に年齢を感じるのでしょうか。体の不調でしょうか。頭の回転が遅くなったことでしょうか。私は忘れることではないかと思います。物を忘れ、思い出を忘れ、そして、人をも忘れてしまうことに不安を感じることがあります。
 しかし、忘れることは悪いことだと、落ち込むことはないかもしれません。どこで聞いたのかは忘れましたが、人間の記憶は良いことが7割、悪いこと2割、そうでないことが1割に脳が調整しているそうです。忘れることが内面を守るのです。
 最近では認知症が広く知れ渡りましたが、一方でそのことをどう受け取って良いのかはそれぞれ違うでしょう。ただ機能が低下したという見方だけでなく、その人が生きるために新しい形を模索しているのだとも考えられるかもしれません。
 海外では年齢を重ねることについて研究している老年学があります。老年学は2つの見方を持っています。1つは「getting old」ただ年齢が過ぎ去っていくこと、そして、もう1つは「growing old」年を重ねてなお成長していくこと。
 出来ることが少なくなっていく中で何が出来るのかを悩むでしょう。恐らく、私の将来もそうかもしれません。しかし、聖書にはただ神に頼り、祈りの手になって祈り続ける姿があります。
 最期は手を合わせることしかできないかもしれません。でも、信仰があればそこで祈りが生まれます。誰かのために祈ることでつながり続けることが出来るのです。恐れと不安を祈りの中で希望と願いに変えていくのです。
 私はこのような祈りを教えて頂きました。親指は身近な人のために、人差し指は教えてくれた人のために、中指は指導的立場にある人に、薬指は弱いひとのために、そして、小指は足りない自分のために祈ると。

2017年9月17(日)  教区講壇交換説教題:「溢れる喜び」  聖書:ヨハネによる福音書15章1~11

玉野教会 山本博之牧師
 中心聖句:これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(11節)
 <1.つながっていなさい>ぶどうの木は神に選ばれた民イスラエルにとって、「平和と繁栄」「神に生かされている喜び」の象徴でした。しかし、実際の彼らは、神への不従順を繰り返し、実を結ばない偽りのぶどうの木になってしまいました。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」「わたしにつながっていなさい」と繰り返し語られ、弟子たちが神の御心を離れて自分本位に歩んでしまうこと、また、自分を愛するように他者を愛することのできない弱き者であることを悟らせました。そして、実を結ぶ民となるために、主ご自身につながっているようにと語られたのです。英宣教者バックストン師は、「とどまっているとはキリストで満足していることである。」と語りました。主イエスの御愛をより深く求め、聖書を読み、祈ることを大切にしていきましょう。
 <2.実を結びなさい>主を信じる者が実を豊かに結ぶためには、「父なる神からの手入れ」が必要です。実りは枝の功績ではなく、農夫によるのです。枝として重要なことは、ただ幹につながっていること、そして、無くてはならないものが何であるかを悟り、それ以外のものを棄てる決断をすることです。「わたしはぶどうの木で、あなたがたはその枝である。」キリストに従う者の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ522)主は私たちが、命の実を一人でも多くの方々と分かち合い、共に喜びに満たされることを願っておられます。

2017年9月10(日)  説教題:「天国への代金」  聖書:マタイによる福音書13章44~52

 誰もが天国に行きたいと思っているでしょう。イメージするのはディズニーランドのような楽しい所でしょうか。または、健康ランドのような癒しがある所でしょうか。どちらにしても、高い入場料を支払わなければならないような気がします。
 聖書の中で天国についてたとえ話が書かれていました。1つ目は、畑の中で宝物を探した人のようであり、2つ目は良い真珠を探し求めて旅する人でした。いずれも、すべての財産を投げうって宝物や真珠を手に入れたと書かれています。
 このたとえ話を聞きますと、そうだろう、そうだろう、天の国に行くのはとても難しくて、土の中から宝物を探したり、真珠を探しに旅に出たり、大変な苦労があるのだと思います。
 そして、何よりも私たちの誤解するのは「持ち物をすっかり売り払い」と言う言葉です。天国へ入るためには全てものをささげなければならないという言葉に何となく納得してしまうのです。
 しかし、それは大きな勘違いなのです。果たして恵みの神様は私たちから全てを差し出すように要求するものなのでしょうか。そのような言い分で命の行き先に不安を持つ人々から金銭を奪うようなことを決して神様はしないはずです。
 このたとえ話の意味は全く反対でした。キリストこそ持ち物をすっかり売り払い、その命まで捨てて私たちを救われたのでした。私たちは宝物や良い真珠とはほど遠い存在でしたが、まるでそのように大切にして下さったというのが十字架の意味なのです。
 と言うことは、天国への代金はもう支払われているということになります。キリストの十字架と言う大きな犠牲によって私たちも何も差し出す必要がないのです。ただ、十字架の意味を信じることによって、誰もが神の国へと入ることができるのです。あなたもいらっしゃい。そう、優しい声が聞こえてきます。

2017年9月3(日)  説教題:「心の畑にできるもの」  聖書:マタイによる福音書13章24~43

 隣の畑に毒麦を蒔くようなことがあるのだろうか。そのようなことを思いながら、このたとえの毒麦が自分のことではないかと心配もしてしまいます。はやく引っこ抜いてしまえと思われるような頼りない信仰者として。
 さて、当時、敵対する国同士の農夫が嫌がらせとして相手の畑に毒麦を蒔くことは実際にあったそうです。ローマ帝国時代には法律で禁じられていましたが、その行為は続けられていたと言います。
 また、毒麦が成長するまでに引き抜いてはいけないのは、根っこがからみあってよい麦と一緒に抜かれてしまうからだと言われています。成長すると穂の部分で容易に判別が出来るので最後に判別をしていたようです。
 このたとえで気を付けることは、「ひとりひと麦」ではないことです。この世界と言う畑に良い人と悪い人がいるという見方ではありません。ですから、この悪い麦とは私のことかと、心配しなくても良いのです。
 「ひとりひと麦」ではなく、「ひとりひと畑」だと思います。自分の中に悪い部分を見つける目を持つことで謙遜になることがあります。聖書には「裁いてはならない」という言葉もあるように、悪い麦探しをしてはいけないのです。
 なぜ、神様は悪いはずである毒麦をそのままにしておかれるのか私たちには分かりません。しかし、悪い部分は引き抜いて排除しようとする考えもまた多く間違いを歴史の中で生んできたことも忘れてはならないでしょう。
 ナチスのホロコーストはユダヤ人を毒麦としましたし、日本でもハンセン病患者をそのように扱いました。自分にとって都合の悪いものを取り除いていくことには限界があるのです。それよりも、その悪いものとどう向き合っていくかを聖書は考えるように語っているのです。誰も排除されることのない世界に近づくために。