説教要約(7月)

2017年7月30(日)  説教題:「『いいね』ひと言のちから」  聖書:マタイによる福音書8章5~13

 インターネットが普及してから私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。フェイスブックと言うものを利用すれば遠い相手の様子を知ったり、伝えたりすることが簡単に出来るようになりました。
 私自身は苦手な気持ちもあり、フェイスブックを見るだけですが、相手の書いたことや興味があることについて、「いいね」と言うボタンを押せるようになっています。その反対に「悪いね」というボタンはありません。
 「いいね」と言うひと言を伝えるだけでも人間はうれしいものです。「いいね」と言うボタンだけがしかないのはとてもいいことだと思います。良いか悪いかと言う判断ではなく、相手の気持ちを受け入れることに意味があるのだからです。
 聖書の中では百人隊長が出てきています。普段は多くの兵士に命令を与える立場にあります。「行け」と言えば行きますし、「来い」と言えば来ます。その体験からイエス様からひと言をいただければ病気の兵士が癒されると信じて来たのです。
 困った時、辛い時にどのような言葉が必要なのでしょう。どこに問題があったか、何が悪かったのかと言う説明は必要でしょう。責任について考える必要もあります。しかし、波のように押し寄せる言葉の中でその人の気持ちはどんどん遠くに流され、受け入れられないままになってしまうことがあります。
 イエス様は百人隊長の言葉を聞いてひと言を与えられました。「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるようにその人の信じている気持ちを大切にし、受け入れるひと言によって百人隊長は安心することができました。
 安心を与えること。何よりも相手と向き合う時に大切なことです。自分の考えを控えめにしながら、キリストのように広い心を受け入れることができるように、神様、私たちを導いてください。

2017年7月23(日)  説教題:「ゴミではなく、思い出です。」  聖書:マタイによる福音書7章15~29

 イエスさまは2つの家の話をされました。1つは岩の上に建てられた家、もう1つは砂の上に建てられた家でした。そこに洪水が起こりました。岩の上の家は大丈夫でしたが、砂の上の家は流されてしまいました。
 このお話は、実際にあった災害のことではなく、何を土台にして生きるかということを問題にしています。何を希望し、何を目標に生きているのか。それが岩のような強いものかどうかが問われているのです。
 しかし、聖書を読む方にとっては災害のことを第一に思ってしまい、砂の上の家に住んでいた人の気持ちで考えてしまうかもしれません。最近でも、九州北部豪雨によって大切な命が失われ、避難生活を余儀なくされている方々を思うからです。
 砂の上の家と聞いて思い出すのは東北大震災後に仙台に行ったことでした。津波で被害に遭われた方の家を片付けるボランティアに参加した時のこと、リーダーの方が言われました。「瓦礫の中にあるのはゴミではなく、思い出です。」
 片付けに行こうとしていた私にはすべての物が泥をかぶった「ゴミ」に見えていた、その配慮の足りなさを痛感した言葉でした。泥をふき取ると写真立てが出てきたり、名前の書いた靴があったり、大切なものとして片づけることが出来ました。
 2011年の信徒の友7月号にある教会の牧師が書いた言葉が印象的でした。「神も仏もいない人と言う人がいます。けれども、家族も、住む家も何もかも失った人に、では、何が残るというのですか。」そのような意味の文章でした。
 私は岩の上の家と砂の上の家が2つに分けられているのではなく、砂のような土台が岩のような土台への変わっていく物語だと思います。手の間からすり抜ける砂のような希望から、何度も立ち直りながら岩のような強い信仰が与えられるのだと思います。何にも奪われることのない希望、祈りが残されているのです。

2017年7月16(日)  説教題:「扉をたたく勇気」  聖書:マタイによる福音書7章1~14

 今日の御言葉はシンプルです。求めなさい、探しなさい、(扉を)たたきなさい。絶望することなく、本当に必要なものが何かを確認しつつ、そのためにできることを小さなことから始めようと呼びかけています。
 ルカによる福音書では、この言葉の実践として、真夜中に訪れた友人のために、近所の家の扉をたたいて、友人の食べるパンを探すというたとえ話になっています。友人を思う気持ちが、ご近所に迷惑をかけたくない気持ちを超えたのでした。
 マルチン・ルーサー・キング牧師はこの話をもとにして、「真夜中に扉をたたく」という説教をしています。彼は「社会秩序が真夜中である」といい、人種差別という社会問題を真夜中の暗闇として解釈しました。
 ただ単に社会問題を福音のテーマにしただけではなく、社会問題に苦しむ人々の内面にも暗闇があることを指摘し、「今日のわれわれの世界においても、真夜中の深い暗闇は、戸をたたく音によって打ち破られる。教会の戸を何百万という人々がたたいている」と語って教会が寄り添うべき隣人が社会にいると考えたのでした。
 私たちの周りには助けを求めている人が多くいますが、一方で、その叫びをあげられずに黙って耐えている人々も多いのです。扉をたたく人々のほかに、扉をたたけない人もいるのです。
 今の日本は助けてほしくても、そう言葉にできない社会になってきています。自己責任だとか、そうなったのは親の責任だとかという言い訳が一般的になり、助けてほしいというだけ無駄なように思わされる社会になりつつあります。
 イエス・キリストは、どのような願いであっても神様に打ち明けることを教えてくださいました。願いを捨ててしまう前に、自分のきもちをそのまま大切にしてくださるのです。神様に聞いてほしい願いがある人に、教会の扉をたたく勇気があることを祈っています。


2017年7月9(日)  説教題:「神様の天秤」  聖書:使徒言行録4章32~37

 自己犠牲という言葉は美しい響きですが、そこには他者にも同じことを求めてしまう危険性が含まれています。教会は、善人の集まりという一般的なイメージが強いからこそ、理想と現実のズレに敏感であるべきだと思います。
 聖書では歴史上、最初の教会の様子が描かれています。心身ともに分かち合うために、持ち物を分け合い、時には、財産を処分して教会の指導者に委ねた人もいたという報告がなされています。
 私は、このような理想的な教会であればと願いますが、同時に、人間の弱さも考慮すべきだと思います。その上で、続きである使徒言行録5章を含めて考えるようになりました。
 使徒言行録5章の前半には、教会で持ち物をささげる人々に感化された夫婦が、自分たちも思って財産を処分してお金を持ってきました。しかし、全てをささげることはせずに、一部を手元に残して置いたことが問題となりました。
 何が問題になったのでしょう。自分の財産ですからどれくらい神様にささげるかは個人の権利です。当時、お金・富はマモノと呼ばれて人間を魅了する魔力があると信じられていました。ですから、その誘惑に負けたことが問題になったのです。
 金銭や富の誘惑に勝ち、神様への信仰を第一に考えることは大切です。しかし、この失敗してしまった夫婦を見ていると気の毒にも思います。彼らは信仰を自分と神様の関係ではなく、他人と比べて考えてしまったのです。
 更には、教会には様々な人々が集まってきます。経済的に裕福な人もいれば、そうでない人もいます。その格差によって多くをささげなければならない、そのような自己犠牲意識を与えてしまう危険があることにも覚えておきたいものです。
 究極的に言えば、神様は金銭を必要とされません。神様の天秤に乗るのは、いつも、見えない部分です。小さな私には不釣り合いなほどの恵みを与えられていることに感謝します。

2017年7月2(日)  説教題:「ささげる気持ち」  聖書:マタイによる福音書5章21~26

 何となく、クリスチャンであることを言いにくい社会の中で、意識して生きることは難しいように思います。日曜日だけのクリスチャンになっていないかという自己反省は昔から課題として残されてきました。
 私の生活と神様への思いはどのようにつながっているのか理解する前に、日常の忙しさの中で曖昧になってしまったり、知らずと使い分けてしまっていたり、振り返ると神様に申し訳なく思うことがあります。
 イエス様はその姿をよく知っておられます。神様を賛美した声で、他人の悪口を言うことは信仰において一貫していないと言われています。驚くことに、イエス様の弟子の中にも「ばか」という言葉を使っているのです。
 長い歴史の中で神殿は大きな意味を持ちました。ささげものをすることは信仰を表現することになりました。同時に、ささげものが立派かどうか、見える部分について意識が向き、ささげる気持ちについては、おろそかになってもいました。
 そのような中で、イエス様はささげる気持ちについて教えられました。もし、ささげものをするなら、周りの人と和解してからささげなさいと。きれいな心でささげる時、神様も気持ちよく受け取られるのだと語りました。
 その言葉によって私たちは受け取る側の気持ちを考える機会になりました。ささげものは赦し合いの気持ちによって価値を持つのです。日々の生活の中で神様に対するように人に向き合うこと、それが私自身を神様にささげることなのです。
※前回の要約についてお詫びをもって修正します。正「小林麻央」 誤「小林真央」