説教要約(6月)

2017年6月25(日)  説教題:「笑顔の光」  聖書:フィリピの信徒への手紙2章12~18

 先日ですが、フリーのニュースキャスターをされていた小林真央さんが34歳で亡くなられたと報道されていました。ガン治療の難しさや家族を残してこの世を去る無念さを思いましたが、闘病中に撮影された彼女の笑顔が印象的でした。
 聖書では、クリスチャンのことを「光の子」と呼ぶことがあります。人間の罪や悪を闇にたとえ、神の光を受けて生きる姿を表現しています。そして、具体的に言えば、光を輝かせて生きるとは笑顔でいることだと思っています。
 ある解説書では光の子を次の4点にまとめていました。①あかるい②しんせつ③あたたかい④えがお。その中で①あかるいと④えがおとは何が違うのだろうかと考えていました。
 笑顔とは誰かに見せるためにあるものだと思います。それは作り笑顔というものになってしまうこともありますが、時には、誰かを安心させたり、勇気を与えたりするのです。
 冒頭で紹介しました小林真央さんは、病気になられてからインターネット上で日記を公開していました。その中でも「癌の陰に隠れない」という生き方を書き残していました。病気の陰で苦しむ姿より、病気を前面に出して笑顔で生きる姿が写真で記録されていました。
 聖書には「星のように輝く」ようにと書かれています。私の好きな言葉に次のものがあります。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」(コリント第2 1541節)
 一人ひとりに違う輝きがあるように、神様は私たちにそれぞれ違う良さを持つように造られています。悲しみの中でそれを隠さずに、輝きを放つように生きなければ神様に申し訳ないように思います。
 星は暗闇の中で一層強く輝きます。私たちの生活にも、暗い出来事が多くあります。それでも、笑顔の光で周りを照らしたいと願います。

2017年6月18(日)  説教題:「神の中に生きる」  聖書:使徒行伝17章22~34

 最近、パワースポットという言葉が流行しています。山や滝、いわゆる自然の秘境のことを指していますが、そこに行くとパワーを得るような気持ちになるということだそうです。一般人でも自然の中に大きな力を感じているのです。
 日本でも多くの宗教施設が自然の中に造られています。都市生活の喧騒から離れて静かな時を過ごすこと、自然の中にある小さな生き物に気付くことで、生きることを見直す機会になるでしょう。何よりも、見えない神を意識する時でもあります。
 パウロという人がアテネに住む人々に語っています。どのように聖書を伝えようかと考え、アテネに数多くある宗教施設の中で「知られざる神」という名のついた祭壇を見つけて話題にしています。
 その昔、アテネの町に病気が流行した時のこと、町にある神々に片っ端から祈って神の怒りをなだめようとしました。しかし、どの神様に祈っても効果がなかったのです。そこで、ある人が言いました。私たちがまだ知らない神様がいるはずだと。そうして、この「知られざる神」という祭壇が出来たそうです。
 私たちの知識には限界があります。しかし、長い生活の中である程度は必要なことを学びますから、知らないこと少なくなってきます。そうして、何となく、自分はよくわかっていると錯覚してしまうことがあるのです。
 パウロは当時のアテネの哲学者が語った言葉で聖書を語りました。「我らはに生き、動き、存在する」。この言葉によって私たちが忘れていたことを思い出させるのです。
 私たちは神様の中に生きています。神様が与えて下さった世界の中で生き、神様が与えて下さった人間関係の中で生きています。私たちは神様に包まれて生きているのです。生まれて来た時、母の胎の中で包まれていたように、今も、見えない神様に見守られています。


2017年6月11(日)  説教題:「だれでも来なさい」  聖書:マタイによる福音書11章25~30

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 」聖書には解説が必要な言葉が多くありますが、このメッセージは真っすぐに心に届いてきます。
 昨日の疲れを残して今日も始まると思うと気分は晴れません。社会で揉まれながら、体の疲れ、頭の疲れ、心の疲れを見えない部分で抱えています。そして、誰にも言えないような心の重荷も背負って生きています。
 どの場面でも、イエス様は柔らかい対応で静かに隣にいて下さる方です。しかし、時に、目が覚めるような言葉で気付かない私たちに呼びかえることがあります。ここでも、ソドムの町が滅んだが、それ以上に恐ろしいことがあると言います。
 ソドムという町は人口が減って消滅したのではありません。聖書では罪のゆえに天から火が下って燃え落ちたというのです。犯罪も多かったでしょう、優しさを失ってもいたでしょう、そして、見えない神を忘れ、見えないものを大切にできなかったのでしょう。
 そのソドムの町から逃げのびた人がいました。ロトという人とその家族です。残念なことに妻だけは帰らぬ人となりました。逃げているその時に、ロトの妻は後ろを振り返り、炎に飲み込まれて塩の柱になったのでした。
 ロトの妻が振り返ったのは、家に残してきた物を思い出したからでしょうか。服やアクセサリー、愛着のある1つ1つに思いがよぎったのかもしれません。物から気持ちを離れさせることは、本当に難しいと思います。
 「重荷」とは見えないもの、見えるものとして多くあります。必要だと思いながら、いつの間にかそれが生きるのを苦しくしている者があります。そのような時に、神様のところに来て1つ1つを手放す練習をするのです。十字架の前で全部を置いていきなさい、吐き出して行きなさいと、ささやいてくださるのです。

2017年6月4(日)  説教題:「正義と正義」  聖書:マタイによる福音書12章15~21

 聖霊降臨日、ペンテコステになりました。見えない力が神さまから送られて、私たちが生きる勇気を見つけ出した日です。教会の生まれた日であり、福音を伝える働きが始まった日でもあります。
 聖書には正義という言葉が出てきます。しかし、この正義という意味はとても難しいように思います。今も、昔も、世界中から戦争や紛争がなくなりません。それは、それぞれに正義があるからです。
 つまり、こちら側にも正義があり、あちら側にも正義があり、お互いの言い分が合わないことによって争いが生まれるのです。ですから、正義と正義と書いたのは、私の正義があり、あなたにも正義があるということを認めるためです。
こどもさんびかで「ひかり、ひかり」の3番にこうあります。
ひかり ひかり わたくしたちは
ひかりの子ども ひかりのように
ただしい子ども いつもただしく
はげみましょう
 この歌を子どもたちと歌う時に、正義とは何かを伝えることの難しさを考えます。正義は色々な立場があるという現実とは別に、道徳的にただしいことがあることも伝えなければならないからです。
 そのような時に、マタイによる福音書9章の物語を思います。歩けない人をいやしたイエス様が律法学者と争いになりました。そこでこう言われています。「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
 何が正しいかということで言い争いになっている時に、イエス様は、何が人間にとって「易しい」こと何かが大切だと言われました。ただしいことより、やさしいこと。それこそが、神の国の正義なのだと、改めて教えられました。