説教要約(5月)

2017年5月28(日)  説教題:「心の目を開いて」  聖書:ルカによる福音書24章44~53

 来週が聖霊降臨日になります。復活されたイエス様は40日間、弟子たちに合われました。悲しんでいる人を励まし、目標を失った人に意味を与え、生きる勇気をそれぞれに与えたられました。
 しかし、復活されたイエス様はそのまま地上におられたのではありません。神の国に行き、いずれ後に続く人々のために準備をするために天へと昇られたことが聖書に書かれています。
 ですから、今日はイエス様と弟子たちが別れる最後の場面になります。まだまだ、心配な部分がある弟子たちをそのままにして天へと行くことに、イエス様は不安を持ったことでしょう。弟子たちも同じ気分だったと思います。
 イエス様と弟子たちの別れは、いわば、親子が別れて生きるようなものです。親離れ、子離れと同じです。現代では、なかなか子離れが出来ない親がいることが問題とされています。
 子離れが出来ない親の課題については日本だけでなく、海外にもあるそうです。英語で「ヘリコプターペアレント」と言うそうです。ヘリコプターのごとく、こどもの近くを飛び、問題があればすぐに解決するために降りてくる親を例えています。
 弟子たちとイエス様が別れたという物語は、生きるために一人で学ぶ時が必要であることを教えています。それは生活だけでなく信仰においてもそうなのでしょう。信仰における親離れです。
 私たちの信仰はいつの間にか色々な人の意見や考え方によって形成されています。だからこそ、与えられた信仰と自分から見出した信仰を分けて考えることも大切なのだと思います。
 学んだことを生きる中で確認し、更に深めていくように、信仰においても違いや変化が出てくることに驚かず、見えないイエス様が私たちの側にいることを信じ、それぞれが一致できるように、互いをよく知り合うことが大切なのでしょう。

2017年5月21(日)  説教題:「復路の人生」  聖書:ヨハネによる福音書20章11~18

※説教者が三浦先生でしたので要約はありません。

2017年5月14(日)  説教題:「信じるってなに?」  聖書:ヨハネによる福音書14章1~11

 もしかしたら、聖書の中に出てくる人はすべて信仰深い人ばかりだと思われているかもしれません。確かに信仰を語った人物もいれば、更に殉教をした人物もいましたが、そうでない人物も存在しました。
 今回、注目したいのはトマスという人です。この人はいわゆる「そうでない人物」でした。疑い深く、物事の裏目を見ては問題にする性格だったように私は思います。面白いことに、ヨハネによる福音書はこのトマスを何度か登場させています。
 復活を信じることができなかったトマスの言葉を聖書に残す必要があったのだろうかと思います。それでも、福音書は疑う気持ちを切り捨てるのではなく、受け入れることに意味を感じたのでした。
 前回の要約に信じることは疑い事でもあると書きました。誤解を恐れずに言うならば、信仰と疑念は表裏一体のように思います。それは関係がつながったり、切れたりすることでもあります。神さまと、人とのつながりです。
 そのつながりは、教会の中の信仰が、どのように社会に対して関係してくるのだろうかとも言えます。これまで、教会は社会の影響を受けすぎる部分から、信仰に対して疑念が生じ、上手く社会との距離を取れなかったようにも考えています。
 科学という言葉に代表される現代的な発想は、聖書の出来事を否定する場合が多かったように思います。復活はない、受胎告知はない、神はいない。しかし、反対に、科学に対する信頼から起こる数々の問題について信仰から発信することは少なかったように思います。
 原発事故だけを引き合いにする訳ではありませんが、命への信頼が揺らぎつつある今、見えないものを信じようとする聖書の言葉が、現代的発想が忘れた大切な何かを思い出すきっかけになると信じています。

2017年5月7(日)  説教題:「終わりの日に」  聖書:ヨハネによる福音書11章17~27

いつになるかは分かりませんが、それぞれに「終わりの日」が与えられます。私たちキリスト教徒は、終わりが何の意味もなく、勝手にやって来るのではなく、その人にとって意味があるように、神がその時を与えられると信じています。

聖書の中では、イエス様が親しくしていたマルタ、マリア、ラザロの家族に別れの時が与えられました。一番下の弟ラザロが亡くなったのです。それに対して、姉のマルタがイエス様にこう言っています。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」ここには、姉としての悲しみと怒りが含まれているように感じます。なぜ、弟が死ななければならなかったのか。なぜ、助けて下さらなかったのか。

 姉のマルタと言えば、聖書の他の場面では、イエス様が来訪された時に食事や世話のことで気持ちがいっぱいになり、イエス様の話をゆっくり聞く余裕がない人物として描かれていました。

マルタの信仰は、祈るよりも先に働くことが大切だ、というような現実的なものかと思いきや、イエス様に恨み言に近い言葉を言いながらも最後には「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と立派な信仰を語っています。

信じるということがどのようにして深まって行くのか説明することは難しいですが、マルタは弟ラザロの死によってその意味が分かったのでした。疑いながらも、信じたいという気持ちを持ち、疑っている自分をも神様は知っておられると理解した時、マルタの信仰は成長したのでした。

マルタの姿を見ながら思うことは、信じるとは同時に疑うことなのです。疑うことなしに、信じることはできないのです。本当の気持ちを神様の前に告白してこそ、自分の気持ちが理解できるのです。終わりの日まで、疑いつつ、信じていきましょう。