説教要約(4月)

2017年4月30(日)  説教題:「思いを形に」  聖書:フィリピの信徒への手紙3章12~21

 今日、私たちは教会総会でこの一年間の目標を立て、そのために一致して進もうとしています。聖書は、その目標に向かう人々への励ましとして、一人の信仰者の声を書き残しています。
 私たち、教会はキリストの福音を伝える目的を持っていますが、ここ数年、教会の環境が変化したことで会堂建築を検討するようになりました。ですから、神さまを礼拝する場所を持つということは何を意味するのかを聖書から考えたいのです。
 預言者ハガイはあのソロモン王が建設した神殿が破壊された後、神殿再建を訴えた人でした。再建しようと考えてから17年ほど、様々な事情で建設が進まず、神殿再建について人々は忘れかけていました。
 ハガイは声を大きくして言いました。私たちの心が満たされないのはなぜか。それは、神を礼拝する場が再建されていないからだと。自分には安心して暮らせる家があるのに、神の家について考えなくて良いのだろうか。
 ハガイの考えはこうでした。神殿を建てた人たちの思いはどうだったのか。初めに計画したダビデ王は言い残しています。自分は立派な宮殿に住みながら、神の住まいが天幕では申し訳ない。だから、神殿を建てたいと。
 ハガイは神の家を建てることで、人々が1つになることを求めていたのではないかと思います。なぜなら、それぞれが持つ神さまへの信仰が形になったものこそ、神の家だからです。
 私はこの数年、幾人かの方々が召されていく中で、新しい教会を見たかったという思いに気が付きました。その託された思いを背負いながら、与えられてきた教会をどのようにして新しい形へつなげていくのかを考える時が来ています。教会堂を思い、それを形にすることは、与えられてきた恵みの応えることなのです。

2017年4月23(日)  説教題:「イエスの証人」  聖書:使徒言行録13章26~31

 使徒言行録と言う書物は、イエス様の死と復活があった後、それを体験した弟子たちによって教会がつくられ、ユダヤ教世界をこえてイエス様のなさった出来事を伝えていく物語です。つまり、イエスの証人として生きた姿を描いているのです。

 今日の聖書では、パウロと言う人がキリスト教について説明している内容が書かれています。パウロは民族に関係なくキリスト教を伝えた人で、この人によってキリスト教は民族宗教から世界宗教に変わっていきました。
 パウロはキリスト教を伝える時に何を語るべきかを考えていました。丁度、使徒言行録9章にはステファノと言う人の言葉が書かれてあります。恐らく、それを参考にしながらパウロは話したのでしょう。
 ステファノが語ったのは、人間には罪があり、キリスト教はそれを悔い改めさせる宗教だということでした。それに対して、パウロは、キリスト教は罪を悔い改めた者には復活の約束があること、神が罪を恵みに変えて下さったと語りました。
 このように、生きることは罪深いことだという反省から、生きることは恵みだという生き方に変えられたパウロの信仰。その信仰をさらに深めていくために、彼が書いた最後の書物、ローマの信徒への手紙から引用します。
 パウロの信仰を簡潔に言い表しているのは「正しい者は信仰によって生きる」です。これは、ハバクク書に書かれた言葉です。ハバクク書は、神の言葉への信頼が崩れた時代に書かれ、神の言葉が実行されない現実にあって、信仰をもって生きることが考えられた時代でした。
 ハバクク書が語った信仰とは信じて待つことでした。必ず、希望が実現すると待っている人は絶望の中で死ぬことはないと語ったのでした。パウロはその信仰を学びながらも、更にその考えを進めました。今はまだ、希望は希望のままだが、すでに、希望がかなったように生きること、将来の姿で現在を生きることこそ、イエスの証人なのです。私たちは、先にある喜びを体現する神様の未来予想図なのです。

2017年4月16(日)  説教題:「ここにいないが、ここにいる」  聖書:マタイによる福音書28章1~10

 イースター、おめでとうございます。長く、重苦しい悔い改めの時が終わり、赦されていること、生きていて良いというメッセージを私たちは神様から受け取ったのです。
 イースターが世間でも知られてきました。お店でイースターエッグを見ている人が「なぜ卵なんだろう」とつぶやいていました。イースターは新しい命を神様から与えられることです。古い自分の「殻」をやぶり、新しい自分になるからです。
 イエス様が復活したことを知ったのは女性たちでした。マタイによる福音書はその女性たちの心の内をよく描いています。墓を見るために女性たちはやってきましたが、「見る」と言うのはじっと見続けるということを意味しています。
 女性たちはイエス様の墓をじっと眺め、悲しみの涙を流そうとして朝早く墓の前に来たのでした。もしかしたら、この悲しみが消えることなく、一生続いていくかとも思われましたが、墓の前で天使に会い、イエス様が復活したと聞いたのでした。
 驚きの中で、女性たちはイエス様が復活したことを伝えに引き返しますが、その道中で「おはよう」とイエス様に声をかけられたと言います。それは一瞬の出来事でしたが、ここにいないはずのイエス様が、確かに近くにいるように感じたのです。
 「おはよう」と翻訳されている言葉の意味は「喜びなさい」です。悲しむために墓を見に行った人に「喜びなさい」とは全く気持ちを汲み取ってないようにも聞こえます。
 生きていく中で私たちは与えられる経験と失われる経験をします。一般的には喪失体験と言うものですが、失われた物が大きいほど、人は混乱し、何かに原因を求めようとします。
 復活とは、命は死で終わるものではなく、その形が変わるのだということです。見えるものから見えないものへ変わり、ここにはいないけれども、ここにいることを知ることなのです。喜びは一緒にいる時に感じるものです。イエス様は、見えないものと見えるものをつないでくださったのです。

2017年4月9(日)  説教題:「小さな背中」  聖書:マタイによる福音書21章1~11

 入園式、入学式の時期になりました。新しい制服、新しいカバンが素敵に見えます。新しい世界へと向かう一人ひとりの背中を見ながら、期待と不安、喜びと戸惑いを感じていました。
 今日は、教会暦の棕櫚の主日になります。棕櫚とは植物のなつめやしのことです。聖書の中ではお祝い事に使われるもので、エルサレムに入場したイエス様を人々はこのナツメヤシの葉を手にお祝いしたことが由来になっています。
 聖書には、「群衆」と「民衆」と言う言葉が使い分けられています。イエス様の奇跡に期待する「群衆」は実利的で、また扇動されやすい人々を指しています。この「群衆」はその後、扇動されてイエス様を十字架につけるよう行動します。
 つまり、このエルサレム入場の歓喜と十字架での叫びは表裏一体なのです。周りの考えに流されて、自分に得することなら歓迎するが、何か問題があると批判する立場をとってしまうのです。棕櫚の主日は、人間が簡単に裏を返して変わってしまう愚かさを見つめ直すためにあるのでしょう。
 一方で、イエス様はその時に小さなロバに乗ってエルサレムに入場されました。「イスラエルの王」と周りからは称賛されましたが、イエス様の気持ちは違っていました。王は戦争によって国家を大きくするものですが、戦争の象徴である馬ではなく、ロバに乗ったのは平和な世界をつくろうとされたからでした。
 ある番組で、種類の違う動物が一緒に生活しているのが紹介されていました。猫と犬は私たちの想像ではケンカをしそうなものですが、小さなころから一緒に育てるとお互いを受け入れて仲良くするようです。
 私たちの社会にも様々な差別やヘイトスピーチが問題になっています。でも、若い世代にはそれを乗り越える力があります。イエス様が小さなロバに乗られたように、私たちも、新しい世代が平和であるように祈り、語っていきましょう。

2017年4月2(日)  説教題:「命に仕えて」  聖書:マタイによる福音書20章20~28

 弟子たちは、尊敬する先生、イエス様が十字架にかかって死ぬことを想像していませんでした。これから、イエス様の言う「神の国」と言う国家が生まれ、そこで自分たちは高い役職につけるのだと考えていました。
 「神の国」とは、人の魂を救う世界のことであり、地上の国家ではありませんでしたが、弟子たちが互いの足を引っ張り合いながら、誰がイエス様に一番近い地位に就くか言い争ってしまいます。
 その姿を見たイエス様は言いました。この地上では偉い人に皆が仕えているけれど、神の国では、偉い人が皆のために仕えるようになると。何かしてもらうことよりも、何かして差し上げる方が、神様の喜ばれることだと教えました。
 「仕える」と言う言葉は英語でホスピタリティですが、ホスピスは古くは簡易宿泊場所のことでした。ヨーロッパでキリスト教が拡大する中で、各地からローマへ巡礼することが良しとされ、巡礼の旅をする人が多かったのです。
 しかし、巡礼の旅は費用がかかりますし、病気やケガも起こります。それを見た人々が巡礼者のために食事や宿泊を提供し、時に看病をしました。それが、時代を経てホテルや病院の始まりになったのでした。
 現代では、このホスピタリティはキリスト教から経済や商業の場面で聞くようになったのは少し残念です。しかし、「仕える」姿勢は今もキリスト教にありますし、十字架の姿こそ、命まで捨てて相手に仕える愛だったのです。
 十字架を見上げる時に思います。そこには苦しそうなキリストの顔がありますが、実はそれは自分の顔だったと。本当は自分が受けるべきものだったと。このように自分と相手を置き換えること、目の前の相手を自分だと考えることが、「仕える」ことのスタートだと思います。わたしは、あなたなのだ。あなたは、わたしなのだ。その深い関係の中で命に仕える、相手に愛を注いでいけると十字架は教えています。