説教要約(3月)

2017年3月26(日)  説教題:「顔晴ろうよ」  聖書:マタイによる福音書17章1~13

 聖書は、ある山の上に行くとイエスの姿が変わって、その顔は輝き、その服は真っ白になったことを弟子たちが見たと書いています。十字架の死を前にして、この姿が変わった出来事は何を意味するのでしょうか。
 光輝く人を見たというのは、聖書の中にダニエル書にも書かれてあります。幻を見る人ダニエルは、チグリス河のほとりで、「体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のような」人を見たと言っています。
 ダニエルは「終わりの時」にその人がやって来るという幻を見たのですから、恐らく、イエス様のことだったと思われます。そして、面白いのは、ダニエル自身が、この光り輝く人になるという体験をしていたことです。
 ダニエルは、バビロンの王に服従するため、豪華な食事を与えられるのですが、ダニエルは、それを断ります。異国の肉は、異教の神に捧げられたものだったので、食べることは自分を汚すことだったからです。
 ダニエルは水と野菜だけで過ごしますが、驚いたことに、他の誰よりも顔の血色はよく、健康に動いたというのです。正に、その顔は輝いており、その姿も元気にあふれていたのでした。
 ダニエルが体験したことは、恐らく、イエス様の姿が変わったこととつながっています。神の子であり、光輝くような栄光を持っていたとしても、これから十字架に向かわなければなりません。しかし、その顔に恐れはなかったのです。
 私たちは「頑張る」と言う言葉をよく使います。でも、何を頑張れは良いのか相手に伝わらないことが多くあります。最近、「顔晴る」と言う言葉を知りました。何があっても、その顔が晴れやかであるように、気持ちを持ち直すことでしょう。
 イエス様は十字架の道を進みますが、その顔はなぜか、輝いていました。苦しみには必ず意味があり、誰かを救う力になることを最後まで信じて生きたからです。その顔が輝いていたのは、死ではなく、神様を見上げていたからです。

2017年3月19(日)  説教題:「つなぐこと、解くこと」  聖書:マタイによる福音書16章13~28

 天国のカギがあればいいと思いませんか。何の心配もなく天国へ行けますし、知り合いを誘うこともできますね。実は、聖書の中にこの天国のカギをもらった人がいました。ペトロと言う人です。
 ペトロはイエス様に誘われて、神の国をつくる働きを手伝いました。イエス様にお弟子さんはたくさんいましたが、その中でもペトロは活躍した人物でした。イエス様の信頼も得ていました。しかし、生前のイエス様との最後の別れは、辛いものになりました。
 ペトロとイエス様の別れはこうです。弟子の一人が裏切り、イエス様は逮捕されてしまいます。心配になったペトロはその様子を見に行きますが、イエスの仲間だと分かれると知らないふりをしたのでした。
 そのようなペトロが天国のカギを受け取る資格があるのかと疑問を持ってしまいます。しかし、それはイエス様が見誤って与えたのではなく、確かに、このペトロに期待して与えたのです。
 天国のカギには2つの力があると書いています。「つなぐこと」とは縛ったり、禁止したりすること。「解くこと」とは解放したり、許可したりすること。そして、私はこの解くこととは「赦すこと」を意味していると思います。
 イエス様は「悔い改めよ、神の国は近づいた」と言って福音を伝えました。この神の国(天国)に入るには悔いることが必要であり、そこには必ず、神様が赦して下さるという信頼があります。
 ペトロは、復活のイエスに会って、イエス様を裏切ってしまった自分を赦すことが出来たのだと思います。そして、自分を赦すことが出来た人は他者をも赦せるのです。そうして、自分の罪を認めて神に赦され、神の力によって全てを赦せたなら、神の国はもうそこなのでしょう。

2017年3月12(日)  説教題:「見えない鎖」  聖書:マタイによる福音書12章22~32

 受難節を歩みながら思うことは、私たちが抱えている苦しみを、ただ、不幸なことだと終わらせることではなく、そこから、神様からの試練を受け取り、十字架での苦しみを想像しながら、赦されて生きている意味を考えるのです。
 聖書の時代には、悪霊が存在すると思われていました。その反対に、聖霊と言う神様からの助けもありました。この「霊」は「息、風」を意味するものだと言われます。
 評論家・作家でクリスチャンの山本七平氏は、聖書の霊とは「空気」だと説明しています。空気とは、大気のことではなく、彼曰く「場の空気」だと。雰囲気やムードと言ったものだと言えるでしょう。
 そして、山本七平氏はこの「場の空気」が見えない鎖となって人間の行動や思考を妨げてしまうことがあると言うのです。確かに、日本人は「空気を読む」ことを大切にし、口に出さずとも理解するようなことをお互いに求めています。
 先日、埼玉のある家庭で不幸な事件がありました。介護疲れによる殺人と自殺未遂でした。長年の介護による疲労、その先が見えない絶望感がついに人間の理性を超えて行動を起こさせてしまいました。
 今、高齢化する中で介護は大きな課題です。認知症などの複雑な事情も増えてきています。しかし、一方で、介護について相談したり、協力を得たりすることが難しい「場の空気」があります。
 何よりも、介護者と被介護者の関係は長い月日の中で重い空気が支配することがあります。その重い空気は癒しや回復、喜びなどを奪っていき、互いを憎むことさえあります。つまり、聖書の言う悪霊もその1つなのだと言えるでしょう。
 私たちの周りにはそのような空気によって支配され、自由にできない人々が助けを待っています。お互いの中に悪い部分を見つけるのではなく、苦しみを前にして、キリストによって新しい関係を作り、苦しみを乗り越えていきたいですね。


2017年3月5(日)  説教題:「我(が)との闘い」
  聖書:マタイによる福音書4章1~11

 今年は、31日が「灰の水曜日」でした。この日からキリスト教では「受難節」に入り、キリストが私たちの罪を背負ってくださったことを覚え、十字架の意味を深める期間を過ごします。
 受難節は40日間とされています。その理由として、イエス様が試練に遭ったのが40日だったことが挙げられます。聖書では、誘惑する者、悪魔と言う存在が近づいてきて、質問をやり取りします。
 誘惑する者が投げかけた質問は3つでした。信仰よりも、体の欲求に従って生きることを勧めたり、高いところから飛び降りて神が守ってくれるか試すようにそそのかしたり、多く物を手にするために神を捨てよと揺さぶりました。
 その3つの質問に対して、イエス様は聖書の言葉で返しました。その3つの返答はすべて申命記から選ばれました。それも、聖書の民が約束の地を求めて40年間も荒野をさまよった時に大切にされた言葉ばかりです。
 私たちが受難節を歩むというのは、荒野でさまようのと同じことです。荒野は何もありません。何もない時に人は考える時間を持ちます。何もないところで、一番に何が必要なのかを考えることが大切なのでしょう。
 聖書のヤコブの手紙51314節にはこうあります。「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」
何よりも「自分自身の欲望」との闘いがあります。私たちの敵は、外にいるのではなく、内にいるのです。だからこそ、聖書の言葉に向き合い、いつも、イエス様が心に住んでくださるよう願っています。私の足りなさを認めつつ、そこに注がれている神の愛に感謝しています。