説教要約(2月)

2017年2月26 (日)  説教題:「逆風に向かう小舟」  聖書:マタイによる福音書14章22~36

 “強風に 雪乱れ舞ふ 湖面かな”
 この俳句は、今年の「信徒の友3月号」に掲載された俳句で、湖山教会第3代目の牧師、三浦先生の作品です。2月は記録的な雪が降りましたから、その心配が歌から読みとれます。たくさんの雪が湖山池の静かな湖面へと溶け込んでいく自然の大きさとそこに住む人たちの苦労が見えるような気がします。
 ガリラヤ湖はイエス様と弟子たちにとってたくさんの思い出があります。それは良いものもあれば、悪いものもありました。ある時、弟子たちだけが小舟で出発したところ、嵐に遭ったことがありました。嵐に遭う弟子たちの前に現れたのは、湖の上を歩くイエス様でした。しかし、強風や荒立つ波を見て恐れたのか、幽霊だと勘違いしたのでした。
 この出来事を見ながら、恐怖によって人間は混乱し、味方でも敵だと思ってしまうことを知りました。私たちの日常においても同じでしょう。恐怖の中で、助けを差し出そうとする大切な人々に、時に厳しい言葉で返したり、反対に、不審に思ったりすることがあります。信仰においても、神様が邪魔をしているように思います。
 そのような時に、私たちは自分が恐怖の中にいることに気が付かなければなりません。恐ろしい出来事ばかりに目がいって、周りで助けようとする人の思いに気が付かないこと、神様がしっかりと助けを用意しているという希望を見失わないようにしましょう。
 最後に、ペトロですが、彼は嵐の中で奇跡を信じて湖の上を歩いてイエス様のところに行こうと思いました。もし、神様なら奇跡で助けてくれると思ったのでしょう。しかし、常に人間の都合が良いように神様がなさるわけでありません。イエス様のもとにたどり着くには十字架の道しかありません。これから始まる受難節、自分の中の恐怖と闘いながら、十字架を背負って歩んでいきましょう。

2017年2月19 (日)  説教題:「ここは、憐れみに満ちる場所」  聖書:ローマの信徒への手紙9章19~28

 聖書は神様と人間との歴史について様々な事柄を扱っている。時に、その関係をたとえることがある。羊飼いと羊であったり、花婿と花嫁であったり、父と子であったりする。今回は、陶器師と器と言う関係で例えられている。
 私たち人間は神様によって造られたのであれば、神様が陶器師で私たちが作品である器だというのもうなずける。聖書では、その関係を土台としながら、日ごろ、私たちが神様に祈る内容について振り返る機会を与えている。
 私たちは何も問題がなければ感謝の祈りをささげるが、困ったことが起これば、なぜこのようなことになったのかを神様に問いただすことがある。祈る言葉は人によって違えど、神様からすれば、作った器が反論するような気持ちになるのは確かだろう。
 そのように、作られた存在でありながら、神様に対して色々と注文をつける人間のことを「怒りの器」と書いている。それは、神様の思いを知らずに、自分側のことばかりを押し付け、神様の怒りを受ける器と言う意味であろう。
 今年度、湖山教会は確かに神様の祝福の中にあったが、同時に、親しい教会員らを天への送ることになった。一人ひとりへの感謝は深くあったが、なぜ、この時に神様は天へのお召しになったのだろうかと何度も祈りの中でつぶやいた。
 聖書では、神様の恵みによって「怒りの器」が「憐みの器」に変えられると書かれていた。それは、私たち自身がこの教会に集められ、互いに神様から受けた憐みを分かち合って進んでいくことを意味しているのではないだろうか。
 創立37周年記念礼拝において、故有田先生はこう語っておられた。「教会が困難な時は起こる。それでも、神の愛の中にいることを忘れてはならない」今はまだ、神の愛の中にいるのか確信がなくとも、信仰の先輩方から励ましを受け、「憐みの器」として互いに支え合う関係を教会で作り上げたいと願っている。

2017年2月12日 (日)  説教題:「未完の人生」  聖書:マタイによる福音書5章17~20

 私は30代半ばを過ぎたばかりで、人生と言う言葉を語るにはまだ早いだろう。教会における人生とは、その命を通して神の言葉を実現することであり、未完の人生を生きているのは誰もが同じである。
 聖書では、律法を完成させることが話題になっている。律法とはユダヤ人たちが大切にしている聖書を土台にした生活規範のことである。特に大切にしていたのは安息日に関するルールであった。
 安息日とは、礼拝をする日であり、それ以外のことは禁じられていた。しかし、イエス様は安息日に病人をいやしたり、助けを求める人々に奇跡をおこなったことが問題となっていたのである。
 旧約聖書を開きてみると数多くの律法が書かれている。それらを簡単に分類すると礼拝に関わるものと生活に関わるものとに分けられる。そして、生活に関わる律法の中には必ず社会的弱者を守る人道的なルールが書き込まれていた。
 ローマ帝国の支配下でユダヤ人たちは一層自分たちの宗教を強化する必要があったが、その中で人道的な律法の運用を忘れていたのである。そして、その律法をあるべき姿に戻そうとされたのが安息日に人を助けたイエス様の思いだった。
 マタイによる福音書の最後、22章の中では律法学者との会話で言っている。大切な律法とは神様を心から礼拝することだが、それと同時に「隣人を自分のように愛しなさい」ということを忘れてはならないと。人を切り捨てて完成するものは、神様の思いではないことがそこに刻まれている。

2017年2月5日 (日)  説教題:「聞くことも、見ることも」  聖書:マタイによる福音書13章10~17

 私たちは言葉を操り、巧みに意思を伝える。他の生物と最も異なっている部分である。しかし、長い時間をかけて思いを伝えることに力を注いできたとはいえ、本当に自分の思いが伝わっていることに不安を感じるのも事実である。
 特に、私は聖書を通して神様の言葉を伝える働きをさせて頂いているが、それが十分にできているか常に反省をし続けている。聖書の時代と現代との違い、聖書の人々と日本人との違いを超えて神様の愛を伝えることは難しい。
 私は教会と共に歩んできた隣接するこども園で、園児たちに話をすることがある。その時に悩むのは、聖書の物語をどのように伝えるかである。聖書の言葉通りに話すべきか、何か他の出来事にたとえるべきか、日々の悩みである。
 聖書、特に福音書ではイエス様がたとえ話を用いている。麦の種、羊など当時の人々にも身近なものが何度も出てくる。そして、一般の人々にたとえ話をされるのは、弟子たちのように神の言葉を理解できないからだと説明されている。
 ここでは、弟子たちはたとえ話がなくても神の言葉を理解できる特権者とされている。一方で、たとえ話を聞いている人々は、理解できない愚かな存在として低い存在としてみる姿勢がある。恐らく、これは当時の教会の特権意識だったのだろう。
 たとえ話は、いつも、相手の立場を思いながら作られている。たとえ話にはイエス様の愛が含まれている。そこには理解できないという相手を見下す思いは全くなかった。相手が受け取れる言葉に置き換える、これこそ、福音の姿勢である。