説教要約(12月)

2017年12月31日(日)  説教題:「来年の星を目指して」  聖書:マタイによる福音書2章1~12

 2017年最後の礼拝になりました。年の暮れになると様々なことを思い出します。良かったこと、悪かったこと、うれしかったこと、悲しかったこと。そのすべてに神様が共におられたことに感謝せねばなりません。
 クリスマスは1225日で終わるかのように誤解されていますが、そうではありません。1225日から15日までがクリスマス期間になっております。これには理由があります。
 その昔、キリスト教は分裂してカトリックと正教に別れました。東西のキリスト教は同じ1225日をクリスマスとして祝っていましたが、暦上は1225日と16日でした。その後、和解をきっかけにそれぞれにクリスマスを尊重して1225日から15日までをクリスマスとし、16日をキリストの洗礼の日として祝ったのでした。
 さて、クリスマスに登場する人物の中に東方の学者たちがいます。幼子イエス様に会いにはるばる東の国から旅をしてきたというのです。それぞれは、権威を意味する黄金、礼拝に用いる乳香、埋葬(十字架のため)に必要な没薬を贈りました。
 それぞれの贈り物は非常に高価なものでしたが、それ以上になぜ幼子の誕生に黄金はさておき、乳香や没薬が必要だったのか疑問で仕方ありませんでした。そして、疑問の中で、もしかすれば「贈り物」として持っていたのではなかったのかもしれないと思うようになりました。
 ある学者は黄金で買うべきものがあった。ある学者は乳香を贈る相手がいた。ある人は、他人かまたは自分のために没薬を持っていた。しかし、キリストに出会い、それが必要なくなったので、そこに置いていったのかもしれません。
 自分には足りないものがある。好かれるために何かをしなければならない。生きる価値がないのかもしれない。そのような不安がとりさられ、幼子イエスのもとから新しい出発をしたのだと私は信じています。

2017年12月24日(日)  説教題:「苦しいクリスマス」  聖書:ルカによる福音書1章39~56    
 クリスマスおめでとうございます。4本目のロウソクに火が灯りました。「希望」「平和」「喜び」そして、「愛」のろうそくに火が灯りました。キリストが私たちのこの冷たい世界に来て下さり、愛をもって温めてくださいます。
 クリスマスは楽しいとイメージされているでしょう。うれしいプレゼント、にぎやかな音楽、美しいイルミネーション、おいしい食事。しかし、それは本当にそれでいいのでしょうか。
 今年の『説教黙想アレテイア特別増刊号』に「クリスマスは苦しい」と言うタイトルの記事が紹介されていました。どの教会の牧師先生が記された文章だったかは分かりませんが印象的な文章でした。
 「クリスマス。それは自分にとって、苦しみの日だ。華やいだ礼拝が終わると、集会室には、毎年同じ光景が待っている。電飾をまとった小さなツリー、その隣に鶏の唐揚げとパウンドケーキ。夜の雰囲気を創出しようとしてか、昼日中にカーテンが閉じられ、それがまた教会員同士の家族的な雰囲気を高めるかのようだ。最後は、一同で『きよしこの夜』を歌い、和やかに会が閉じられる。私は、いつも通りのクリスマスが終わったその夜、牧師館を一人で飛び出し、当て処もなく高速道路に車を走らせる」
 この文章は次のような一文で閉じられています。「私は問う。『イエスさま、あなたはあのカーテンの向こう側におられるのですね」この文章を読んだ時、私はクリスマスが本来は痛みと苦しみの中にあることを改めて思い出させられました。
 いつの間に、クリスマスは家族の時という感覚が広がっていたのかもしれません。それは間違いではありません。しかし、その家族とは「神の家族」と言う意味を忘れていたのかもしれません。
今日、幼子イエス様が生まれました。十字架によって全ての人を神の家族として1つにするためなのです。私たちの仲間は「カーテンの向こう側」にいるのです。


2017年12月17日(日)  説教題:「岐路に立つ」  聖書:イザヤ書40章1~11節

 アドベント第3週に入りました。1本目のロウソクは「希望」。2本目のロウソクは「平和」。3本目は「喜び」を意味します。雪が舞い降りる寒さの中で、心までも凍り付いている人がいます。神様が喜びをふりまいてくださいますように。
 今日のイザヤ書は預言者イザヤが書き残した預言書です。おおよそ、26000年ほども前の出来事を書いています。すでにイザヤが生まれた国は戦争で滅び、戦争奴隷から解放された時代でした。
 国を失い、家を失い、人生を失ったイザヤと聖書の民は神の言葉だけを信じて歩もうとしました。「荒れ野」と言うのはパレスチナに広がる自然風景だけでなく、全てを失って疲れ果てた彼らの心の様子を描いています。
 その「荒れ野」に声が響きます。歩むべき道を定めるかのように、自分の進むべき道を探せと言っています。ここでの道は進んで行く道ではなく、戻っていく道です。戦争が終わり、祖国に帰る道、帰路です。
 闘いに疲れ果てた先に、恋しい我が家を思って帰る準備をイザヤは呼びかけました。家と言っても何も残っていません。ただ、神を信じて生きていくという信仰をとりもどそうと、「神の家に帰ろう」と呼びかけたのでした。
 「神の家に帰ろう」。そう思われる時がどれくらいあるでしょうか。日常は忙しく、なすべきことは多く、私たちが求める物も多様です。しかし、疲れた心が必要としているのは、安心して過ごせる神の家ではないでしょうか。
 私たちにはここに帰るべき神の家があります。人との関係で疲れ、自分を見失う時に、神の声を聞き、立ち戻る原点を与えられるのです。与えられた命として歩みだす一歩を、神の家から始めましょう。


2017年12月10日(日)  説教題:「拾われた希望」  聖書:エレミヤ書36章1~10

 アドベント第2週に入りました。一本目のロウソクは「希望」。2本目のロウソクは「平和」を意味します。この寒い空の下で争う声が聞こえてきます。激しい銃声が降る地域もあります。そのために祈ります。
 今日のエレミヤ書は預言者エレミヤが書き残した預言書です。おおよそ、26000年ほども前の出来事を書いています。その頃、隣国バビロンとの戦争の脅威がありました。エレミヤは平和のために命の危険を冒してまで王に進言した人でした。
 当時、預言者エレミヤは戦争が起こることを危険視していました。しかし、周りの人々は楽観的でそんなことは起こるはずがないと誰もが否定したのです。意見の合わないエレミヤは神殿に入ることさえも固く禁じられていました。

 神殿に行くことが出来れば自分の意見を周りに聞いてもらえますが、それが出来ずに焦るばかりです。それでも、エレミヤは諦めません。友人のバルクにお願いして、自分の言葉を書いた書物を神殿で読んでもらうことにしたのです。
 平和、平和と言うがどこにそれがあるのか。安心している今、私たちは戦争へと静かに向かっている。エレミヤの言葉を聞いて、その脅威に気付いた一部の人々が王へとその書物を届けたのでした。
 果たしてエレミヤの言葉は届いたのだろうか。その冬、王は確かにエレミヤの書物を読みましたが、数行を読んで暖炉の火の中に投げ込んでしまいました。その後、エレミヤたちが生きた時代は戦争へと向かい、国家を失い、故郷を失ったのでした。
 エレミヤたちが体験したことは過去のことではないように思いました。今も、戦争に向かう予兆があるようです。その中で戦争に反対する小さな声は捨てられていきます。
 しかし、エレミヤの出来事が今も残っているのは暖炉から誰かがその言葉を拾い上げたからです。希望は捨てられるだけでなく、必ず、拾い上げられる時があります。日本だけでなく、世界が平和であるために声を止めてはいけないのです。

2017年12月3日(日)  説教題:「待ち続けてアドベント」  聖書:マルコによる福音書13章21~37

キリスト教界には、アドベントという期間があります。クリスマスまでを心待ちにする準備期間です。実際には、1225日より前にある4つの日曜日から始まります。今日から、アドベントが始まるのです。

 アドベントとはラテン語で「到来」のことです。キリストがこちらに向かってやってきます。その準備を私たちは4つの日曜日を数える中で整えて行きます。ろうそくに火を灯しながら、私たちの心が明るくあるようにと努めます。

マルコによる福音書にはクリスマスの出来事がありません。なぜなら、最も早い時期に書かれた福音書であったため、まず、十字架の出来事を伝えようとしているからです。ですから、イエス様が成人して活動を始めるところから描かれています。

ですので、今日はマルコによる福音書に書かれた世界の終わりについて預言された部分からキリストの到来、クリスマスについて学びます。キリストは歴史の中で2000年以上も前に来られましたが、もう一度、この世界に来られるのです。

世界の終わりについて書かれていることは恐ろしいことばかりです。ニセ救世主が現れたり、天変地異が起こったりするとあります。その中で「太陽は暗くなり」と言う言葉に注文します。

世界が暗くなっていく。人の心が冷たくなっていく。太陽が暗くなっていく時代にあります。しかし、聖書は言います。太陽が暗くなってもキリストは輝いていると。キリストの輝きは太陽よりも人を明るくするのです。

私たちの周りには暗く見える部分がありますが、どうぞ、アドベントのろうそくのような温かい光を届けることが出来ますように。