説教要約(11月)

2017年11月26日(日)  説教題:「あなたに欠けているもの」  聖書:マルコによる福音書10章17~31

 どれほどのものを手に入れれば満足するのか。人間の欲の深さに底はないと感じることがあります。あるお金持ちがイエス様に聞きました。「永遠の命を受けるにはどうすれば良いのか。」
 お金持ちの質問を聞いていると、この人は多くの物を手に入れて自信があることが分かります。もう、あとは永遠の命くらいしか手に入らないものはないと言いたげです。
 この質問をイエス様がどのような気持ちで聞かれたかは分かりませんが、聖書にあるように律法を守るように教えておられます。面白いことに、モーセの十戒から、人間に関わる6項目のみを伝えています。お金の扱いには長けていても、人間に対してはそうでないことを見抜いておられます。
 多くの物を持ち、また、律法に書かれているすべての規則を守る中でお金持ちは自分こそ完全な人間だと思っています。その何も欠けることがないというプライドに対して、イエス様は「あなたに欠けているものが1つある」と言われました。
 具体的には貧しい人々に施すことをお金持ちに求める言葉が書かれています。しかし、この「あなたに欠けているものがある」と言う言葉はただ他人事のように思えません。この私に、今の私に投げかけられているように強く響くのです。
 大切なのは「欠けているもの」に気付くから始まります。自分が完全ではなく、他人を見て思うように、自分にも欠けている部分があることを知っておくのです。そして、その欠けた部分に神様の愛や周りの人のやさしさがあって自分が支えられていることに気付くのです。
 日常のことに習熟したころ、上手く物事が進んでいるころ、どうぞ、「あなたには欠けているもの」があると神様が言ってくださいますように。

2017年11月19日(日)  説教題:「はい、はーい」  聖書:サムエル記上3章10

1119日は子ども祝福合同礼拝でした。
 小さなころから、「はい」よりは「いいえ」が多い人間だったように振り返ります。聖書の中でサムエルは「はい」と神様に応えていますが、そのようになるまでどれだけの時間が私には必要なのか分かりません。
 実際には「いいえ」というより「イヤイヤ」という気持ちが強い子どもだったように思います。だれもが経験するものですが、何に対して嫌になる気持ちがあります。1つのことから始まり、それは広がっていきます。
 そのような私を変れるものは何でしょうか。忍耐を学ぶだけでは難しい場面もあります。その中で、私の思い通りにはならないことを知る機会、そして、思い通りにならなくても、神様が良くしてくださることを知ることが大切だと思います。
 多くの場合、「イヤイヤ」と言う気持ちは自分が受け入れられていない時に起こるものです。しかし、他の人も自分でいっぱいなのですから、私のことまでどうすることもできないことも成長につれて分かってきます。
 だからこそ、聖書の神様がいてくださることが救いになるのです。神様は海のように深く、空のように広い方だからです。私は空に浮かぶ雲のようにそのままでいていいように感じるのです。
 神様に多くの物をいただきながら、人は「はい」と応えることが出来るように思います。どうぞ、この小さな子どもたちにも、その恵みを豊かに与えて下さい。

2017年11月12日(日)  説教題:「部品化される人間」  聖書:マルコによる福音書12章18~27

 私たちは今日も何かの役割を受けて働いています。それが仕事でなくとも、自分がなすべきこととして頑張っています。しかし、一生懸命になる中で、自分らしさや一人の人間であることを忘れる時があります。
 サドカイ派の人々は、イエス様が神の国を伝える時に、復活はないのだから神の国もないと考えたようです。そこで当時のユダヤ社会で習慣とされていたレビラート婚について意見を出しました。
 レビラート婚とは、家父長制に近いもので財産の継承のために作られたルールです。もし、ある人が結婚して子どもがいない内に亡くなったら、その人の弟が兄の奥さんを受け継いで跡継ぎとなる子どもを産まなければならないのです。
 サドカイ派はこのルールを知った上で復活があるなら、その妻は誰のものになるのかと言うとんち話をイエス様に投げかけています。跡継ぎを生むためのルールを逆手にとって答えに困るような質問をしたのでした。
 ここで分かるのはサドカイ派の人たちは財産を継承するために人間はいると考えています。まるで財産を守るための部品でしかないような考え方です。上からの目線で自分たちの財産をどう守るのかと言うことしか考えない見方です。
 私は「パート」と言う言葉は好きではありません。英語の「part(一部)」からできた言葉ですが、一人分の仕事を数人で分ける時に、パートの人間は果たして一人の人間として見られているのか、疑問です。
 すべての指導的立場にある人がそうだとは思いませんが、1つ仕事を配分して任せていく中で、人間を部品のように扱う危険性が全くないとは言い切れないでしょう。そして、何よりも、人間自身が1つの部品であること受け入れ、孤立化した考えを持つことも起こりえます。
 だからこそ、毎週の礼拝に意味があるのです。神様の前に立つとは一人の人間に戻る時だからです。あなたも命を与えられた大切存在であることを思い出すのです。

2017年11月5日(日)  説教題:「面影が残る空」  聖書:コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節~5章1

 ある年の、ある月の、ある日のこと。それは教会に関わる人の葬儀でした。雨の降る寒い中で葬儀は行われました。まるで空が私たちの悲しみを物語るような色でした。
 その葬儀の時のことです。告別式が終わり、斎場へと向かう車の中でした。ご遺族の一人が空を見ながらつぶやきました。空は既に雨がやみ、何とも言えない曇り空でした。「この空を覚えておこう。この空の下であの人は逝ったことを。」
 私は葬儀の度に、斎場に向かう度にこの言葉を思い出します。空模様と共にその胸に刻んだ痛みを思い出します。一人ひとりに忘れられない空があり、その空の中にある日の面影を偲んでいるのだと思います。
 私たちの希望はその空に上にあります。曇り空を通り抜けてその先にあります。雲の上にはいつも太陽があります。必ず慰めがあることを信じています。空の上、もっと遠くに神の国があることを信じています。
 聖書は、私たちは「外なる人」と「内なる人」と言う2面性があることを教えています。「外なる人」は肉体を持つ存在です。「内なる人」は神様から与えられた霊であり、再び神様のもとに戻っていく存在でもあります。
 「外なる人」、肉体は年齢と共に弱りますが、「内なる人」はそれとは反対に強くなります。悲しみを乗り越えることで、互いの慰めを受けてより強くなるからです。聖書は愛によって「内なる人」は強められると言います。
 私たちは直接に神様に会うことはありませんが、故人を通して神の愛を教えられてきました。そのつながりは今もあることを今日、思い出して慰められます。