説教要約(10月)

2017年10月29(日)  説教題:「心が頑固」  聖書:マルコによる福音書10章2~12

   聖書が書かれた時代にも離縁と言う出来事はあったようです。イエス様とファリサイ派の人たちと   の話はモーセの律法で決められている離縁について話し合いが起こりました。 

 ファリサイ派が離縁について話題を切り出したのには目的があったようです。聖書には「イエスを試そうとした」とあるように難しい話題を投げつけては困らせようとしていていました。
 人を試そうとする気持ちこそ、離縁の始まりであるように思います。ファリサイ派の人々は、モーセの律法に決められているので離縁は正当化されると思っていましたが、ここでイエス様は反対の意見を出されました。
 モーセの律法に反する意見をイエス様が語ったことで、ファリサイ派としては律法違反として責める糸口を見つけたわけですが、それよりも、イエス様の答えは本質を問うものでした。
 離縁を否定したイエス様がどう考えておられたのかは分かりませんが、当時、離縁された女性たちの立場は守られることがなかったため、そのような弱者を生み出すことを避けたいと思われたに違いありません。
 離縁することが問題かどうかということよりも、共に生きるためには互いに謙遜が求められます。神は男と女とに人間を分けてお造りになり、二人の間から命が生まれるようにされました。半歩ずつゆずらなければ、互いがぶつかります。
 「心が頑固」であれば人は離れて生きざるをえない。その厳しい答えを自分のことのように受け取りました。少しでも、私の心を柔らかにしてください。相手の言葉を受け入れる柔軟さを、神様にお願いします。


2017年10月22(日)  説教題:「備えあれば憂いなし」  聖書:マタイによる福音書25章1~13

※10月22日は地区講壇交換のため説教要約はありません。

2017年10月15(日)  説教題:「よくなりたいか」  聖書:ヨハネによる福音書5章6

※10月15日は特別集会で樋野興夫先生が来られました。

2017年10月8(日)  説教題:「お先に、どうぞ」  聖書:マタイによる福音書20章1~16

 私たちは生まれながらにして不公平を感じながら生きているのではないでしょうか。誕生の違い、家庭の違い、環境の違いに不満を持ち、他者と比べる中で本当の自分を見失ってはいないでしょうか。
 聖書にはぶどう園のお話が出てきます。朝早く雇われた人、9時に来た人、12時に来た人、午後3時に来た人、午後5時に来た人がそれぞれ働きました。そして、賃金が支払われ時に問題が起こりました。
 何を思ったのかぶどう園の主人は最後に来た人から賃金を渡し、それぞれに1デナリのみを支払ったのでした。この光景を見て最初に来た人たちが怒ったのは想像できるでしょう。
 このお話は、労働に対する賃金のお話ではありません。神の国に入るということが目的とされているお話です。そうなると、先ほどと違って今度はお先にどうぞとゆずってしまうかもしれません。誰しも、神に国にすぐに行きたいとは思わないでしょう。
 それぞれ異なる時間にぶどう園に呼ばれたように、私たちは様々な違いの中で人生を過ごし、最後には神の国に行きます。その中で、順番の後先が反対になることもあるでしょうか、どのような時にも平安に過ごせるように成長したいものです。
 最近、アニメの「少女ハイジ」をテーマに自己形成を考えるということが言われているそうです。少女ハイジが成長する姿の中で教育や自然にふれることの意味を考え直すというものです。
 その中で、ドイツ語の「entwicklug」と言う成長を意味する言葉が出てきます。これは絨毯を巻いてロール状にするように人格はその人生の中で太く豊かになることを意味しています。私たちが神の国に入るというのは、この成長をとげることなのだと思います。そして、どのようなことが起ころうとも「お先に、どうぞ」という心の平安を持つことが神の国に入る準備なのです。

2017年10月1(日)  説教題:「何も持たないで」  聖書:マタイによる福音書19章13~30

  ※101日は世界聖餐日礼拝でした。

 今日は世界聖餐日を迎えています。世界各国のキリスト教会は教派を超えてこの日に聖餐式を行ってい ます。分けられたパンとぶどう酒を通して、私たちが神さまによって1つであることを覚えるためです。
 さて、イエス様が十字架にかかった後、残された弟子たちはどのようにしてこの聖餐を続けていったの でしょうか。イエス様は福音書の至る箇所で様々な人々と食事をしていました。聖餐のその食事の1つとして記事になっています。
 弟子たちはイエス様がそうしたように、特に貧しい人たちとの食事を継続していったように想像します 。そして、その食事の途中でキリストを思い出すものとして聖餐の原型となったパンとぶどう酒の儀式を行っていたようです。
 しかし、残念なことに今ではその貧しい人々と分かち合う食事は失われ、聖餐だけが残ることになりました。イエス様が大切にされていた活動は忘れ去られ、イエス様を思い出す聖餐だけが残ったことは皮肉なことのように思います。
 渡辺英俊牧師は「福音と世界(20176月号)」においてその理由として、パウロがコリント教会で起こった問題のために「空腹の人は家で食事をしなさい」と言ったことが後のキリスト教に大きな影響を与えたと説明されています。
 コリント教会では我先にと集まってきた人が勝手に食事をしたために、後から来た貧しい人たちが食べる物がないような状況が起こっていました。パウロはそれを貧しい人を辱める行為だと怒り、その問題解決のために家で食事をしてくるように言わざるを得なかったようです。
 渡辺先生はその経過を語った上で『「聖餐」への退落』が起こったと言われます。尊い儀式でありつつも、貧しい者への配慮を失った聖餐の歴史を知り、自分の弱さを知る儀式としてこの聖餐を再認識しました。この食事は「何も持たないで来なさい」というキリストの招きの言葉であることを深く刻みたいと思います。