説教要約(1月)

2017年1月29日 (日)  説教題:「祈りの家」  聖書:マタイによる福音書21章12~16

 昔、ある学生が、教会にはお守りは売っていないのかと尋ねてきたことがある。キリスト教を知らないとは言え、それを聞いて笑ってしまったことがある。教会がお守りを売ったり、おみくじを引かせたりすることはないのだから。
 しかし、笑ってもいられない状況が聖書の中にあった。イエス様がいた時代には、神殿の周りにたくさんの店が並んでいた。これらは、祭りの時に並ぶような屋台とは違う。神殿の礼拝に必要なものを売っていた。
 神殿でささげるいけにえの動物を売る人がいた。その隣で両替をする人もいた。神殿の周りは店が立ち並び、残念なことに神殿の祭司までがその利益に関わっていた。誰が店を構えることが出来るかは祭司の判断が必要だったのだろう。
 そのお金のつながりを見てイエス様はお怒りにあった。神殿とは神に祈りをささげる場所であり、商売する場所ではない。当然のことだが、ふと、人間はそのようなことを忘れてお金の勘定に気を取られてしまうのであった。
 さて、歴史は繰り返すもので、宗教改革が起こった時にも教会は免罪符と言うものを売っていた。それを買えば罪は赦されるのだ。罪の赦しがお金で買うことが出来、売る人々は「お金がチリンと鳴れば魂は救われる」とまで言っていた。
 私たち、プロテスタント教会、その意味は「抵抗する」である。常に、私たちは祈りの家を守るために、私たちの内側にある罪と戦って抵抗しなければならないのであろう。なぜなら、お金はとても魅力的だからである。
 そして、何よりも、弱い者から奪い取り、豊かな者がより豊かになっていく社会に対して、それは、愚かな神殿と同じ姿であることを訴えて行かなければならない。イエス様がお怒りになったのは商売自身ではなく、搾取だったからである。

2017年1月22日 (日)  説教題:「幸いを見つける人」  聖書:マタイによる福音書5章1~12

 私たちにとって幸いとは何だろうか。日々、過ぎていく時間と出来事の中で立ち止まって考える機会を聖書は与えてくれる。生活の基準や境遇が誰かよりも良いというような一般的な見方から、どれほど、自分の人生を振り返るか、でもある。
 聖書の中で、幸いは常に、不幸と一体になっていた。より適切な表現で言うならば、祝福と呪いである。この2つは常に一体で存在した。神の命令に従えば祝福であり、背けば呪いを受けると考えられてきた。
 ルカによる福音書を見れば明確だが、今日の聖書箇所と並行する記事には、幸いと不幸が一緒に書かれてある。つまり、人間には幸いを受ける人と、不幸を受ける人がいるという見方で書かれている。
 マタイと言う人は、このような旧約からの考えを見直し、幸いだけについて書いたのは当時としては異例だった。彼は、人間の考えが変われば、すべてが幸いとして受け入れられると主張したのだ。
 2016年の年末に、渡辺和子さんが永眠された。社会では作家として知られています。たくさんの素晴らしい言葉を残して逝かれた。その中で私が記憶しているのは、「苦しみを超えて」と言う詩を訳されたことである。
 様々な苦しみを経験した人が、苦しみの意味を神さまから学ぶ姿が詩に書かれています。その中でも、心に残るのは、最後の一言である。「心の中の言い表せぬ祈りはすべて叶えられた私は最も豊かに祝福されたのだ」
 私たちは、誰もが最後を迎える。その最後に何を残すのか。私は不幸だったというのは簡単だが、もし、神様に出会い、苦しみを乗り越えて「私の人生は祝福に満ちていた」と言うことが出来れば、それが幸いなのではないだろうか。

2017年1月15日 (日)  説教題:「神様の地引網漁」  聖書:マタイによる 福音書4章18~22

 イエス様には12人の弟子たちがいたと聖書には書かれています。さぞ、選ばれた人格者かと思いきや、12人たちはいわゆるどこにでもいる人間、弱い人間でした。一番初めに弟子になったのは漁師の4人でした。
 聖書の描写から読み取るに、漁師には2種類があったようです。シモンとその兄弟アンデレは岸辺から網を投げる貧しい漁師であり、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは船を持つ割と豊かな漁師だったようです。
 いずれにしても、漁師と言う仕事は嫌われていたようです。漁師は朝早く、暗いうちに海辺で仕事をしますが、人々は暗い水の上を悪霊がさまよっているという噂を信じていたため、漁に出ている人たちを気味悪がっていたからでした。
 そのような漁師たちを弟子にされたイエスさまは、彼らに言いました。これまでは魚をとってきたあなたたちは、これからは「人間をとる漁師」になるため弟子にならないか。そのように呼びかけました。
 この言葉は、イエス様が機転を利かせて言ったのではなく、旧約聖書の預言をもとにしています。エレミヤ書、ハバクク書には神様が漁をするように、人間を神の国に引き上げて救ってくださるという預言があるからでした。
 「人間をとる漁師」というのは、ただ、神様を信じる人を増やすことだけではないようです。人間を見る見方を変えることが求められています。当時の漁は、岸辺からにしろ、船の上からにしろ、地引網漁が基本でした。
 私には経験はありませんが、地引網には色々なものが引き上げられると言います。それは、どのような人間でも神の国に、この教会に迎えられるという意味ではないかと思います。どのような人を受け入れる広い網、その心を持つようにと言われているのではないかと思います。


2017年1月8日 (日)  説教題:「天からの声」  聖書:マタイによる福音書 3章13~27

 16日はイエス・キリストが洗礼を受けたことを記念する公現日でした。公現とは、洗礼を受けた後にイエス様が神さまの働きをしていくため、公に神の子として現れたという意味です。
 さて、洗礼と言うのは罪を洗い清めていただく儀式のことですが、罪のないイエスさまがわざわざ受ける必要はなかったように思います。それでも、洗礼を受けられたのには意味がありました。
 洗礼を受けるイエス様は、「我々にふさわしいこと」と言われています。この「我々」と言う言葉は誰を指しているのでしょうか。これは罪を持つ人間すべてを意味しています。この言葉から、イエス様は罪のある人間の立場に立って考えておられたのです。
 このイエス様の洗礼について聖書の他の箇所ではこう説明されています。フィリピ26節、「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にしてしもべの身分になり、人間と同じ者になられました」まさに、これこそ、イエス様が洗礼を受けた意味になります。
 イエス様が洗礼を受けた後に天からの声がありました。「これは私の愛する子」と言う神さまの声は、私たち人間を造られた理由でもありました。こうして、イエス様は人間が神さまに愛されて生きるお手本となったのでした。
 2001年に日本のカトリック司教団が「いのちへのまなざし」と言うメッセージを出しました。その中で注目されたのは自殺者への理解でした。これまで、自殺は罪とされました。なぜなら、イエス様を裏切ったユダが自殺したからです。
 しかし、「いのちへのまなざし」では自死に追い込まれた人々の苦しみを分かち合い、大切な人を失った家族へ共感したい思いが書かれていました。洗礼とは、自分の罪だけでなく、他者の罪を見おなす目が与えられるのです。


2017年1月1日 (日)  説教題:「恵みの時、動き出す」
  聖書:コリントの信徒への手紙二6章1~10
 新しい年がやってきました。たった一日しか経っていないというのに、人間と言うのは面白いものです。元旦を迎えてとても清々しい気分を感じています。キリスト教には元旦という行事はないのですが、これは日本人の文化として根付いてきた感情なのだと思いつつ、新年を神さまに感謝します。
 さて、新しい一年を迎えることは、同時に、過ぎ去った一年を振り返ることでもあります。昨年は、楽しいこともありましたが、悲しいこともありました。出会いもあり、別れもあり、すべてが神さまの恵みだったと信じています。
 新しい年の初め、元旦とはすべてをゼロに戻して生き始めることだと思います。その意味で、私たちは神さまの恵みといったい何だったのかを振り返ることから始めたいと思います。
 神様の恵みは返すことのできない無償のものです。無償とはただ単にもらうだけと言うことではなく、私たちには返すべきものがないということです。私たちは受けたものはすべて神さまのものだったということに気付くのです。
 しかしながら、昨年を振り返ると、一喜一憂している私たちの姿がありました。損をしたとか、失ったとかいう気持ちは、いつの間にか私たちが神さまから受けたものを勝手に所有していると勘違いしたからなのではないかと反省します。
 私たちは、命1つだけで生まれて何も持たないものでした。すべてを与え下さったのは神さまです。一年を始める前にもう一度、そのことを心の土台にしたいと思います。神様がこの一年、私たちに計画している素晴らしい出来事に会いに行きましょう。