説教要約(9月)

2016年 9月25日(日)  説教題:「人生の四季」  聖書:ヨハネによる福音書11章1~16

 スイスの精神科医であるポール・トゥルニエは著書「人生の四季」において、一生を4つの季節になぞらえ、それぞれの時期における課題を挙げた。人はどの季節にも神を知ることができるが、月日を重ねることに神への認識は確かになると言う。
 聖書では、ラザロと言う人が病気なったことが伝えられている。病気と聞いたイエスさまはすぐに「この気はで終わるものではない」と言われた。この言葉には、暗に人は病気と聞くと死を想像することが含まれている。
 日本キリスト教会東京告白教会の牧師、渡辺信夫先生が「死は永遠の次元でこそ捉えられる」と言われた。この意味は、死とは病気の結果に起こることではなく、常に私たちの目前にあり、神との対話の中で理解される出来事だということだろう。
 私たちは病気になると、その恐怖から病気に支配されてしまう。しかし、重要なことは、人間と病気を分けて考えること、死と病気を分けて考えることである。病気になったとしても、私という存在は変わらない価値を持ち続けているのだ。
 だからこそ、病気というのは、ある意味、死を考える機会を与える。トゥルニエの言うように、人生の季節の中で神を考えることが深まっていくのであれば、病気はそれを進めるもの、季節の移り変わりとでも言えるかもしれない。
 このラザロの病気には癒しがなかった。そして、死という結果を迎える。ラザロを愛したイエスさまがそれを拒否する理由はない。つまり、この物語は、病気が癒されるだけでは不十分であることを教えている。病気が癒されようが、人は最後には死を迎えるのであり、そのことを考える必要があることを教えている。
 私は命を持ち、生きるがゆえに常に死を前にしている。時々、それを忘れてしまうが、死は去ったのではない。しかし、私たちには希望がある。人生の冬に死を体験する時にも、冬の後に新しい春が来るように、新しい命、復活を信じようと神様に向き合っている。それぞれの人生において、神様との出会い、歩みがある。

2016年 9月18日(日)  説教題:「たまねぎの信仰」  聖書:ヨハネによる福音書10章31~42

 まだ、神学部で学び始めた頃のこと、神学書に向かいながら、信仰とは何かを求めた友人の一人が先生に尋ねた。信仰とは何か。その先生はにこやかに話した。信仰とは、次のように例えられるかもしれない。
 お母さんが子どもにたまねぎの皮をむくように頼んだ。子どもはたまねぎを持って皮をむき始めた。しばらくして、お母さんが見に行くと、その子はたまねぎを一枚一枚ばらばらにして言った。お母さん、たまねぎには皮しかありません。
 先生は言った。信仰とはたまねぎのようだ。内側ばかりに向かっても見えない。その意味は、信仰とは思索や学習の中で理解することが難しいのであって、何よりも、神の愛を求める実践の中で磨かれるものだということだろう。
 聖書の中には不思議な言葉が多くあるが、イエス様が「わたしを信じなくても、その信じなさい。」と言ったことに戸惑う。イエス様を信じなくても良いのか、業を信じるとはどういうことなのだろうか。
 キリスト教を布教する場面で使わる言葉として「伝道」と「宣教」がある。伝道は直接的に聖書や神様について教えることであり、宣教は言葉を語るだけでなく、奉仕の中でキリストの姿を表現することだと考えている。
 「その業を信じない」という言葉は、言葉の限界を超えて、奉仕の中で神の愛を伝える宣教の業を指している。自分の内面に向かうだけでなく、外側に向かって信仰を表現する中で、何を信じているのかが明確になってくる。
 神様はその愛を示すために、イエス・キリストを遣わし、人が神に仕えるのではなく、神が人に仕える姿を見せた。同じく、私たちもキリストによって教会の外にいる人々に向かって遣わされている。隣人と向き合う中で、何を信じ、何を希望し、何を愛しているのかが、関係の中で神様に教えられるのだ。

2016年 9月11日(日)  説教題:「ロバの耳、羊の耳」  聖書:ヨハネによる福音書10章22~30

 神殿で言い争う声が響く。イエス様とそれを囲むユダヤ人たち。ユダヤ人たちの中には律法学者などの有識者も何人かいる。「あなたはメシアなのか、はっきりしてくれ」迫るように詰問する裏に言葉の罠が仕掛けられていた。
 ユダヤ人はどうやら、イエス様自身がメシア(救い主)だと答えれば、神への冒涜罪で逮捕して刑に処そうと計画していたようだ。イエス様の言葉を素直に受け入れる羊の耳を持つ人々もいれば、そうではない耳を持つ人もいたのだ。
 「王様の耳はロバの耳」というイソップ童話がある。ある国の王様にはロバの耳を持つという秘密があり、唯一それを知っているのは床屋だけだった。床屋はその秘密を守ることができずに、国中に広まり、王の秘密は公になってしまう。
 なぜ、ロバの耳になったのか。この物語の前には強欲な王様が神様に触れるものは何でも金になるように願った話がある。最後にはその強欲さを反省して神様に謝罪すると、全て元通りになるが、罰としてロバの耳を神さまは与えたと言う。
 ロバの耳は、自分中心的な考えの末に、誰の意見も聞くことのなかった愚かさを象徴している。それは、神殿の中でイエス様と言い争ったユダヤ人にも言えることだろう。彼らもまた、神殿から生じる利益を守ろうとしていたからだ。
 奇しくも、この時、神殿奉献記念祭であった。その昔、異邦人によって汚れたささげものが神殿に持ち込まれたことを覚え、神殿を聖なる場所として守ることを覚える日である。
 今、神殿には汚れたささげものはないが、ロバの耳にたとえられる自分中心的な思いはないだろうか。心を清く保つことこそ神様の求めるものだと言われているように思う。私たちは、神様の言葉を聞くことによって心をきれいにすることができる。欲望という分別しにくいゴミを、祈りと賛美、聖書と奉仕によって少しずつ外に出していきたい。

2016年 9月 4日(日)  説教題:「ひとり ひとりの名をよんで」  聖書:ヨハネによる福音書10章1~6

1つ、こどもさんびかを紹介したい。
1節 ひとりひとりの名を呼んで 愛してくださるイエスさま 
   どんなに小さな私でも 覚えて下さるイエスさま

2
節 ひとりひとりを愛されて 嬉しい時には喜びを 
   悲しい時には慰めを   与えてくださるイエスさま
 神様は見ておられる、この私を。その言葉にホッとする時、どこかで自分が大切にされていないという実感があることに気付く。私たちは非常に多くの集団で生活する社会になった。しかし、集団の中で何を感じているのだろうか。
 多くの集団の中で私たちが感じているのは、安心感というよりは、孤独感であるように思う。これほど、多くの人間が集まりながら、その周りとの関係があまりに表面的なだけに、その孤独感は一層深まっている。
 また、集団というものは、一人一人の考え方や生き方を変えるようになる。一人でいる時と、集団にいる時の考え方を切り替えているのが本当のところだ。実際には、自覚もなく、それを行っている。集団は、個人に埋没感を与え、集団の中に身を隠すような隠密性・匿名性を高めている。
 「木を見て森を見ない」という言葉があるが、その反対に「森を見て木を見ない」こともあるだろう。今の社会は、その中にいる一人一人に関心を示さなくなっている。ただ、集団を守ろうとする全体主義の中で、個人を切り捨てるという矛盾が起こっている。
 神様は、私たちがそのような過ちを犯すことをご存じだったのだろう。私たちが必要としているのは、複雑な社会ではなく、ひとりひとりが大切にされる神のまなざしを持つ社会だった。全体を変えるために、まず、目の前の一人を変えていくこと、そこに愛を注ぐことがキリストの働きだった。集団に隠れた一人として生きるのか、神の目にとまる一人として生きるのかによって、一人の価値は変わる。