説教要約(8月)

2016年 8月27日(日)  奨励題:「私と湖山教会」  聖書:フィリピ信徒への手紙2章15~18

      奨励者:高田道子姉

   ※奨励だったため、要約はありません

2016年 8月21日(日)  説教題:「光を放つ命」  聖書:ヨハネによる福音書8章12~20

 暗闇とは、絶望や悲しみというものではなく、それを生み出す無知や無関心を意味するように思う。キリストは世の光であるというのは、世間に広がる無知や無関心に光を当て、問題を見過ごさない姿勢を持つことである。
 アジア・太平洋戦争(この用語を使用する理由は前号を確認のこと)において、私たちは一人の人間として、加害者としての反省を持ち、戦争の悲惨さを記憶しながら、平和を実現する働きに努めていくことを確認した。
 しかし、戦争においては殺人や差別といった人道的な問題だけでなく、信仰においても大きな過ちを生み出してきたことを知らなければ、本当の意味で戦争を振り返っているとは言い難い。
 東北大学教授であった川端純四郎先生の遺著「教会と戦争」の中で、先生ご自身の反省を含めながら、戦時中に教会で天皇を拝むということがなされていたことを指摘されている。
 1937年、日本政府は戦争に向かうため、国民の統制を目的に天皇を崇拝する国民儀礼を考案した。国民儀礼とは、どのような集会であれ、その初めに天皇を崇拝することを義務付けたものである。そして、戦争の激化とともに、国民儀礼は次第に強制化されていった。
 神を礼拝する前に、人間である天皇を拝んでいたという事実の前で、私たちは戦時中に「殺してはならない」という十戒の言葉だけでなく、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という約束を破っていたことに気付かされる。
 更には、戦後、このことについて公式な場で反省する機会がなかったことも大きな問題であると川端先生は言う。しかし、この問題は当時の人々を責めるためにあるのではなく、何よりも、人間を神として崇めようする弱さが私たちにあることを明らかにしているのだ。
 私なら、戦時中の圧政において国民儀礼を否定できただろうか。私は弱い。だからこそ、言える時に言うべきことを言わなければならない。人は過ちを繰り返す。また、言えない時代がやってくるかもしれないからだ。必ず最後には、真実の光が、罪の闇を照らす。人を恐れず、神を恐れる信仰が与えられるように祈る。

2016年 8月14日(日)  説教題:「戦争の名前」  聖書:ヨハネによる福音書8章3~11

 この8月に私たちは戦争の記憶をよみがえらせる。その激しい戦闘と悲惨な状況を思い起こし、二度と同じ過ちを犯すまいと肝に銘じる。しかし、その戦争の記憶すら、戦後の歴史の中で「つくられている」ことを覚えたい。
 毎年、815日の終戦記念日に向けて、86日の広島原爆投下、89日の長崎原爆投下が戦争と平和を考える一連の流れとして扱われている。確かに、2つの都市に原爆が投下されたことは見過ごしてはいけない歴史的な傷である。しかし、この原爆投下を前面に出す戦争の記憶とは「被害者意識」でしかない。
 更に、大切なことは、私たちがその戦争をどう呼んでいるか。「戦争の名前」こそ、戦争への意識を表すものであることを、東北大学のキリスト教学科で教授されていた川端純四郎先生の遺作「戦争と教会」から知ることになった。
 「第二次世界大戦」は、複数の国家間が敵対した戦争の2番目だという意味で抽象的で無性格である。問題なのは、歴史一般ではこの戦争が1939年にドイツがポーランドに侵攻したことが始まりとなっており、1931年に日本が満州国へ侵略したことを暗に伏せていることである。
 次に、「太平洋戦争」だが、これはアメリカが使用した名称であり、日本とアメリカの戦争を意味する。日本にとっては大陸侵略の最終段階であったはずだが、中国侵略戦争を覆い隠す表現として戦後はその役目を果たしてきた名前である。正しくは、「アジア・太平洋戦争」だと川端先生は記しておられた。
 私は、あなたは、どの「戦争の名前」を使っていただろうか。いつの間にか、アジアに侵略した記憶を消し去り、加害者から被害者に成り変わっていたのかもしれない。この「戦争の名前」は、私たち日本人の「罪の名前」でもあるのだ。
 飛躍した解釈であることは承知している。しかし、キリストが言われた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」、この言葉が、私たちの歴史にも向けられているように感じる。
 キリストの前に立つ時、どのような罪も赦されることを信じている。だからこそ、もう同じ罪を犯してはならないという優しい言葉を受けながら、私たちは加害者として悔い改め、アジアとの和解に目覚めて、平和を将来に残していきたい。

2016年 8月 7日(日)  奨励題:「日本での留学を終えて」  聖書:フィリピの信徒への手紙4章6~7

  奨励者:ファン・インソク韓国留学生
※ 奨励の要約を森嶋牧師がまとめたものです。
 私は日本のアニメが好きで、日本に興味を持ち始めました。私の住む韓国では若い世代に注目され、韓国でもそのアニメを作られるようになりました。日本語でその内容を理解したいと思う気持ちから日本語を独学するようになりました。
 留学した友人の勧めで、日本語を生かして留学することを決めました。初めは家族、特に母親が驚き、心配しました。日本語を勉強していることも知らなかったのですが、最後には、日本での留学を応援するようになってくれました。
 日本での経験はたくさんありましたが、特に面白かった日本語は「お兄ちゃん」という言葉でした。「兄弟」を意味する言葉ですが、アルバイトのお店でお客さんが私に「お兄ちゃん、ビール」と注文され、年上のおじさんから言われてとても変な気分でした。
 また、「恐れ入ります」という言葉もそうです。JRの汽車が遅れてくる時や、レストランなど色々な場所で聞きました。韓国でも同じ言葉はありますが、身分の高い人が深々と謝罪する言葉です。日本人はとても謙遜だと思うようになりました。
 そのような楽しく、大変だった留学を支えてくれたのは神さまであり、湖山教会でした。留学前に母と一緒にこの教会を探しました。韓国の教会は礼拝時間が遅かったので、遅れて来ることもありましたが、私を受け入れてくださり、楽しくコーヒーを飲んだり、バザーに参加することができました。
 今日、私が選んだ聖書箇所は、留学前に母が書いてくれた手紙にあった言葉です。知らない場所で知らない人たちと過ごすことをとても心配してくれました。でも、どのようなときも、素晴らしい出会いを神さまがくれることを母は祈っていました。
 その祈りのおかげで、この一年間、素晴らしい留学を終えることができました。これまで出会った人に「ありがとう」を言いたい気持ちです。そして、留学を終えた今、私の心に残る言葉があります。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」この日本の地でキリストとそれを信じる皆様と出会い、私の中にも新しく、希望に満ちた信仰ができました。日本と韓国が平和であるように。また、日本に来ます。お会いする時を楽しみにしています