説教要約(7月)

2016年 7月31日(日)  説教題:「ガリラヤへ行け」  聖書:マタイによる福音書28章1~10 

※説教者が外部の講師でしたので説教要約はございません

2016年 7月24日(日)  説教題:「血となり、肉となり」  聖書:ヨハネによる福音書6章41~59節 

 「天から下って来た」という言葉を聞いて、どう思うだろうか。この地上に生きるすべての命は、父と母から生まれてくるのであり、突然、天から降ってきたのではない。だが、この言葉は、より深い意味で、命はどこから来るのかについて答えようとしている。
 すべての命は、天の神さまのところから来て、そこに帰っていくという聖書の考え方がここにはある。そして、その与えられた命を生き通すために何が必要なのだろうか。ただ、自分のためにだけ生きることが許されるのだろうか。
 教会では与えられた命であることを見える形で確認する。それが、聖餐と呼ばれる儀式でパンとブドウ酒を飲み食べることである。この儀式の由来は、イエス・キリストが死ぬ前に弟子たちと一緒に食べた食事だと言われている。俗に、最後の晩餐と呼ばれているものである。
 このヨハネによる福音書は、その最後の晩餐について物語にはしていない。十字架の場面を見れば明らかなので各自確認してほしい。その代わりに、この6章で食事に関係する話が連続して出てくる。
 6章の初めには、5千人の人々が1つの食事を分け合う奇跡の物語がある。それはまるで、最後の晩餐の意味を新たに考えようにしているように思われる。身近な弟子たちだけでなく、どのような人も神さまとの食事の席に入ることができると語っているように思えるのだ。
 この日本でも貧困が絶えることはない。今年の55日端午の節句の新聞をご覧になっただろうか。いつも、元気で無垢な子どもたちの姿が語られる紙面に、今年は各紙がこぞって「子どもの貧困」について扱っていたことはショッキングだった。
 子どもの貧困とは、お腹をすかせた子どもたちがいるという直接的な問題だけでなく、この日本が最も弱者の立場にある子どもたちを食い物にするような社会になってしまったということなのか。無いのではなく、奪われているというのが本質であるように思う。

 キリストは誰にでも与える。その血と肉、与えられるものすべてを与えつくす方である。そのパンとぶどう酒を受けた私たちも、キリストのように自分を分け与える神さまの働きに、少しでもつながっていきたいと願う。

2016年 7月17日(日)  説教題:「祈りと労働」  聖書:ヨハネによる福音書6章22~27節

 最近、このような言葉を知った。「心配事の9割は起こらない」なるほど、そうかもしれない。ある和尚さんが書いた本のタイトルだったそうだが、私たちがいかに心配事に囲まれているかが分かる一言だった。
 2015年の12月に労働安全衛生法が改正されて、それぞれの企業にストレスチェックが義務付けられた。毎年の自殺者数の多さ、過労による労災補償の増加など様々なことが理由に挙げられている。
 このような心配事やストレスは、労働の中で最も多く生まれてくるのだが、そのような思いは労働の意味そのものを失いかねない。何のために働いているのだろうかを忘れて、ただ、労働だけが目的となるときに人間は1つの危機を迎える。
 聖書の中では、イエス様によってお腹いっぱいになった人々が、また、食事をもらおうとしてやってくる姿があった。そこで言われているのは、食べることだけが生きる意味ではなく、働く意味でもないということだった。
 何を求めて生き、働くのかという疑問を改めてイエスさまは私たちに投げかけている。忙しさの中で、脇に置いてしまいがちな問題である。本当に私たちが求めているものは、食べ物だけではないということである。
 「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という言葉が出てくる。それは、食べるためだけでなく、神様に愛されて、良いものとされるために生きることだと言える。労働に必要なのは、そのことを振り返る瞬間なのだ。
 カトリックの修道院では様々なものが生まれた。ビール、ワインにチーズ。どれも労働によって生産された。そして、そこには「オーラ・エ・ラボーラ」という合言葉、「祈りと労働」という言葉がいつもあった。
 このような逸話がある。ある船に年老いた漁師と若い学生が乗り合わせた。船には「祈り」と書かれたオール、「労働」と書かれたオールがあった。学生が言った。「祈りなんて古臭いものはいらない、労働だけで生きていける」
 もし、労働だけで人間が生きていくなら、この逸話の結果が分かるように、ぐるぐると同じところを回る繰り返しの毎日に疲れを感じるだろう。でも、そこに祈りがあったなら、私たちが働く意味を振り返らせ、疲れを癒す時が与えられる。

2016年 7月10日(日)  説教題:「髪の毛一本さえ」  聖書:使徒言行録第27章33~44節

 このようなタイトルを書くと、壮年層の男性にとってはドキッとするかもしれない。齢を重ねいくに連れて失っていくものは多いと言うが、これほど明確に喪失を感じる問題もないからだろう。
 余談ではあるが、旧約聖書の預言者エリシャも同じく、男性が共有する悩みを持っていた。列王記下2章では子どもたちに毛が薄いことをバカにされた記録がある。その顛末はご覧頂ければと思うが、少し、大人気ない感じもする。
 この言葉を語ったパウロは、それこそ、髪の毛一本どころか、その命までも失うかもしれない状況にあった。なぜなら、パウロとその周りにいた人は航海中に嵐に遭って難破したからである。
 この27章を読んでいくと状況が分かるが、航海するには危険な時期と知りながらも、一行は船出したのだ。案の定、山から吹き下ろす風が嵐を起こして、パウロの乗った船は予定よりも遠くに流されてしまった。
 このまま流されていくと、浅瀬に乗り上げてしまい、それこそ、助けが来るまで難破することになりかえない。しかも、もう、航海するような時期ではないでの助けが来る可能性は低い。
 船に乗っていた人々は、重量を軽くするためにすべての荷物を次々と海へ投げ捨て、そして、最後の食事をして、食料までも捨てようと考えていた。そして、船を捨ててそれぞれが岸を目指して泳ぐほか選択がなかったからである。
 その時に、最後の食事の場面で、パウロは語った。これから深い海に飛び込む人々に向かって、波に飲み込まれて海の藻屑になるかもしれないと感じているその不安に対して、神さまの守りがあることを。
 船から様々な荷物を捨てて軽くなろうとした姿は、ある意味、人生の最後と重なる部分があるのかもしれない。最近では、断捨離と言う仏教思想が広く共有されているが、あの世に持っていけない物を処分して、身軽に生きることを教えている。
 神さまを信じる私たちもそうだろう。たくさんの物を持って、神さまの手を掴むことはできない。様々なものを捨てて、最後は、その身1つで船と言うこの世界から、海と言う次の世界に飛び込んで行くのだろう。だからこそ、しがみつく力をゆるめて、神さまにゆだねること、それが、捨てる意味なのだろう。

2016年 7月 3日(日)  説教題:「さんびの守り」  聖書:ミカ書7章14~20節

 預言者ミカが最後に語ったのは孤独と言う絶望だった。預言を語ったとしてもそれを聞いてくれる人がいない空しさは辛かっただろう。しかし、力を振り絞って「その日」について語った。
 ミカが知ったことは、もし、この世界が滅ぶとしても、それは神が破壊するからではないということである。それは人間の罪によって滅ぶ。神から離れた人間が自分勝手にふるまい、そして、自己崩壊してこの世界は終わりを告げると語る。
 ミカの預言を古めかしいものとして一蹴することはできないだろう。何よりも、現代にあって人間は世界を何度でも破壊するほどの大きな力を持っている。破壊兵器に、原子力技術などは一度暴走すれば人間には止めることができないからだ。
 ミカの7章は2つの部分に分けることができる。前半は17節のミカ自身の言葉であり、8節以降は後の時代に付加されたと言われている。その8節以降からは礼拝の式文と思われる内容が書かれてある。
 ミカ書6章では、罪深い人間に向かって神と対立するのではなく、礼拝する者に変わろうと言う呼びかけがあったが、ミカが生きた時代には共感する人がいなかった。しかし、時代は変わり、後世の子孫たちがミカの言葉を聞いたのだ。
 ミカの預言を聞いた後世の人々は、ミカ書の最後には神への賛美がふさわしいと考えて文章を付加したようだ。その賛美の言葉の中にミカの名前の由来である「あなたのような神がほかにあろうか」と言う文章が添えられている。
 預言者ミカが私たちに伝えているのは、希望と言うものを捨てずに持ち続けることの意味であり、神を賛美する意味だと言える。自分と言う空しい存在を捨てずに生きるために、人間は自分よりも偉大な存在に目を向けなければならない。
 そう、ミカの言葉が次世代の人々に届いたように、どのような苦しみも痛みも無駄に終わることはなく、いつか、誰かを支える力に変わると言うことが預言者ミカの体験したことであった。
 私たちが知る讃美歌はどれも同じで、悩みと苦しみの今を背負いながら、助けられる未来を信じて歌うことで、賛美の歌が私たちを守っていると言える。時代を超えて昔の人々の励ましが歌詞となって与えられ、次の時代へとつないでいく。