説教要約(6月)

2016年 6月 26日(日)  説教題:「君の名を知りたい」  聖書:ルカによる福音書8章26~39節

 交換講壇 森 言一郎 師(岡山県東部地区・旭東教会)  要約原稿を頂きましたのでご覧ください。

 イエスさまと弟子たち一行は、ガリラヤ湖での激しい嵐を乗り越えて、向こう岸にたどり着きました。【ゲラサ人の地方】(26節)は異邦の地です。豚の登場によってそのことは明らかです。弟子たちにとって気の進まないで場所でした。しかし、イエスさまは向こう岸を目指すのです。
 イエスさまによる弟子教育はここからいよいよ本格的に進みます。ルカ9章では「12人を派遣する」という見出しがある通りです。もっとも今日の箇所では弟子たちの直接の描写はありません。彼らはイエスさまの傍らで見守り、学びました。
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 イエスさまの前に現われた男は「かまわないでくれ」と叫びながら近づいてきます。人のこころは複雑です。声を掛けて欲しい私とそっとして欲しい私が居ます。
 彼は墓場を住まいとし、鎖につながれ足枷をはめられている。しかも、それを引きちぎってしまう程の激しさがある。異様な光景です。彼にはそれ程までの「悲しみ・怒り・叫び・絶望・あきらめ」があったのです。
 ひとりの人の人間性の回復の糸口として、イエスさまは彼に向かって、大切な言葉を語りかけました。実は、それが、名前の問題なのです。
 【イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。】とあります。【レギオン】とはローマの軍隊の単位です。数千人規模の軍団のことで彼の本当の名ではありません。
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 金香百合さんは私の大切な先生です。金さんは「人間が生きているために必要な栄養素」を、大きくわけて二つ挙げられます。それは、〈からだの栄養〉と〈こころの栄養〉です。ここに登場した男は、その栄養を充分にとることが出来ているのでしょうか。

 否です。「人間が生きているために必要な栄養素」の摂取が出来ない栄養失調状態だったのです。
 では、彼とこの世を結んでいたのは何だったのでしょう。イエスさまと出会うまでは「鎖」「足枷」がその役割を果たしていました。あまりに悲しい現実です。人と人との関係、そして、神さまとの関係すらも断ち切られていた。実は、私たちも様々な「 」によって苦しんでいることも思い起こしましょう。
 彼はイエスさまの時代の極限に置かれていたホームレスなのです。彼の悲しみは、単に家がないということではなかったはずです。必要なのは、人々とのつながりであり、神との関係の回復でした。
 本当の名前を取り戻す生き方をこの人はイエスさまから促されました。【自分の家に帰りなさい。……】と。自分の町に戻って、家族や隣人との絆を取り戻すようにという〈復活〉の促しがここにあります。
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 彼の絶望は私たちと無縁ではありません。湖山教会のこれからの道をみ言葉は明らかにしてくれています。
 名を呼び合う教会の交わりの在り方、一人ひとりが帰る場所、ホームとしての教会の在り方が示されています。主のみ言葉を感謝し、み言葉に従う覚悟を深めましょう。

2016年 6月 19日(日)  説教題:「違いを乗り越えて」  聖書:ヨナ書4章1~11節

 預言者ヨナはあまり褒められた人物ではなかった。彼は、神さまから命令を受けながらもそれに逆らったからである。神さまの言葉を伝える働きを受けながら、その働きから逃れたいと言う気持ちを、牧師として分からないわけではないが。
 ヨナの物語を簡単に振り返ると1章は彼が神に逆らって行き先の違う船に乗るが嵐に遭い、自分の罪を認めて海に投げ込まれる。2章では嵐の中で大きな魚に飲み込まれ、魚の腹の中で反省する。3章では、魚の腹から助け出されて神の命令通り、ニネベの町で預言する。4章では、ニネベの町の人々が悔い改め、町を滅ぼすと言う預言が撤回され、そのことでヨナと神が会話する。
 この物語で預言者ヨナの役割は、自民族中心主義で心の狭い人物を演じることである。自分たちだけが救われると言う思いとは別に、神の願いはどのような人をも救いたいと言うことが浮き彫りになってくる。
 ヨナはニネベの町の人々が悔い改めても、もう遅いと思ったのだろう。今さら反省しても赦すものかと言う気持ちがここにある。そして、その思いが赦そうとする神に向かって爆発したのだ。
 新約聖書にヨナの気持ちと通じる物語がある。マタイによる福音書の20章にあるぶどう園の労働者のたとえである。朝から働いている労働者も、仕事終わりにちょっと来て帰る労働者も同じ賃金だったことで、不満の声が上がった。
 誰もが働けるぶどう園は神の国を意味している。しかし、ヨナのようにそれを不満に感じる声もある。それが心の狭さであり、時に神の言葉や救いを狭めてしまうことがある。
 ヨナは一度船から投げ出された。その船には色々な国の人が乗っていただろう。しかし、同じ目的地に向かって、違いを乗り越えて進んでいた。教会も同じことである。神の国に向かって進む船であり、様々な人が乗り込んでくるのだ。
 神との対話の中でヨナは気付いたのかもしれない。一度は逆らった自分を見捨てることなく、大きな魚を遣わして命を助けてくれたこと。その思いは自分だけでなく、この地上にいるどのような人にも向けられている。だからこそ、人の違いを乗り越えて神の救いを語っていくのだと。

2016年 6月 12日(日)  説教題:「剣を鋤に、槍を鎌に」  聖書:ミカ書4章1~8節

 預言者ミカについては情報がわずかである。活動時期は紀元前700年ごろとされ、同時期には預言者イザヤもいた。活動場所のモレシェトは防衛の町として日々、他国の脅威をひしひしと感じていたに違いない。
 ミカにとって神の救いとは平和そのものであった。しかも、彼が語る平和は自分たちだけが安心して暮らせることではなく、周りの国すべての世界平和だった。その内容はイザヤ書2章を参考にされている。
 救いの日に、全ての人が心を1つにして神を礼拝し、「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」ことで、戦いから平和へと導かれる。ミカの預言には、平和の象徴として庭の木の下で家族団欒することが約束されている。
 非常に目を引くのは45節の「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む」である。まだ、民族中心的な考えが主流な時代に、それぞれの信仰を認める宗教的寛容性がここで表現され、平和と合わせて共存が求められている。
 そして、ミカ書5章へつながり、平和の実行者としてメシアがベツレヘムで生まれる預言へと進む。ベツレヘムはその当時、最も小さな町。発言力の弱い、期待されていない場所から、弱さと痛みを知る救い主が生まれるとミカは信じた。
 その救い主を迎えるために私たちは変わらなければならない。ミカは言う、今、私たちの罪は大きく、神さまはそれを知っておられる。言わば、裁判で私たちは被告人であり、神の御使いたちが原告となって、裁判官の神から宣告されるのだ。
 礼拝では初めに黙祷をするところが多いと思うが、それぞれがどのようなことを思っているか考えると面白いものである。もしかしたら、家の戸締りを心配したり、朝からケンカした相手の顔が思い浮かんだり、色々あるだろう。

 ミカは私たちが被告人から礼拝する者に変わるために、「神が何を求めているか」ということを静かに考えなければならないと言う。そこから、神さまと歩み道が始まる。罪を背負う人から、神のみ心を行う人へと変わるために。
 ミカ書68節にはこうある。「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」戦いの道具から平和の道具に打ち直されるように、神さま、あなたの言葉で、心のとがりを打ち直してください。

2016年 6月 5日(日)  説教題:「栄枯盛衰」  聖書:ヨハネによる福音書3章22~36節

 フランス・アルザス地方に、クリスマスツリー発祥の地と言われているコルマールと言う町があります。そこにある美術館に「イーゼンハイム祭壇画」と言う作品が展示されています。
 本来は、コルマールから20キロ離れた聖アントニウス会修道院付属施設の礼拝堂にあったもので、修道会の聖人、アントニウスの木像を安置するものでした。
 「イーゼンハイム祭壇画」は、平日の間は閉じられていて、そこにはキリストの十字架が描かれています。日曜日には、その絵が描かれている部分が扉となって開かれ、更に、キリストの誕生を描けたものを見る事ができます。
 そして、そのキリストの誕生を描いた部分も扉となっており、それを開くとアントニウスの木像が出てくるようになっています。なかなか、手の込んだ木像保管庫だなと個人的には思いました。
 この祭壇画の第一面、キリストの十字架が描かれたところに、母マリヤやマグダラのマリア、使徒ヨハネなどが出てきますが、何と、洗礼者ヨハネもそこに描かれているのです。
 時間的な問題で言うと、十字架の時には既に洗礼者ヨハネは斬首されてこの世にはいないはずですが、生きた洗礼者ヨハネが聖書を持って十字架を指さしているのです。そして、文字が書かれています。「この方は栄え、私は衰えねばならない」
 私たちは生きる中で競争を強いられます。その中で体得するのは「私は栄え、他の人は衰えよ」と言う感覚ではなかったでしょうか。比べられ、測られて生きる中で少しでも自分を大きく見せようと、人間は思うようになります。
 その私に洗礼者ヨハネに言います。十字架の前で私たちはどう生きるべきか。本当に栄えるべきは十字架であって、私は何もかも捨てて行かなければならないのだと。
 私たちは命を持ち、衰えて最期を迎えます。しかし、衰えることにも意味があると言うのです。何よりも、衰えない永遠のものが何であるかを求め、そして、それを聖書の中に見つけるのです。神の言葉は、永遠に立つということを。