説教要約(5月)

2016年 5月 29日(日)  説教題:「第二の私」  聖書:ヨハネによる福音書3章1~15節

 ニコデモはユダヤ教の先生であり、当時、ユダヤ社会を導く最高法院の議員でもあった。地位・名誉を持ち、学識を持った彼が、夜な夜なイエス様に会いに来ると言う物語は、とても興味深い。
 ニコデモが夜に動いたのには理由があった。ユダヤ教社会では有名な彼が、そのユダヤ教社会の根幹である律法を批判するイエス様のところに行くからだ。彼の心境を上手く言い当てた個所が後に出てくる。
 ヨハネによる福音書11910節「昼のうちに歩けば、躓くことはない。世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、躓く。その人のうちに光がないからである。」そう、ニコデモには暗闇があった。どうも、晴れない気持ちだったのだ。
 そのニコデモの気持ちを貫いたのは次の言葉だった。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」何かを背負いながら、それを捨てきれずにいる自分をイエス様は知っておられたのだ。
 しかし、ニコデモと言う人は少し皮肉だった。年齢のせいかもしれないが。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 こう話しニコデモの内心には、変われない自分への言い訳が込められているように感じる。
 自分を捨てきれずにいるニコデモに向かって、イエス様は諦めずに言葉を続けられる。「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」
 水とは洗礼(バプテスマ)のことであり、霊とは信じることによって聖霊が与えられるということである。更に、聖霊が共にいる人のことを「風は思いのままに吹く」と表現している。
 風のように自由な私、第二の私になるには何が必要か。ラインホールド・ニーバーが次のような祈りを残している。「神よ、変えることの出来ない事柄については、それをそのまま受け入れる平静さを、変えることの出来る事柄については、それを変える勇気を、そして、この二つの違いを見定める叡智を、私にお与えください。」
 変わることのない自分を受け入れ、変えるべき自分と決別し、そうして、自分の気持ちを整理すること。ずっと見ておられた神さまが、一番私を知っている。


2016年 5月 22日(日)  説教題:「親から受けた言葉」  聖書:ヨハネによる福音書14章8~17節

 今日は三位一体主日である。子どもの礼拝において、面白いたとえが紹介された。三位一体の神とは「おやこどんぶり」のようなもの。主役は、鶏肉か、卵か、ご飯か。どれもが主役なのだ。
 私は、そのたとえを聞きながら思った。「おやこどんぶり」はそれぞれが脇役でありながら、互いの絶妙な相性に美味さあるのだと。父なる神も、子なるキリストも、聖霊も脇役ではないが、互いへの謙遜から生まれる調和がそこにある。
 そもそも、3つの存在とは何を意味するか。旧約聖書においてはレビ記の中で、三人の証言によって罪が明らかにされると書かれている。つまり、三人が一致することで正義が与えられる。
 一方で、新約聖書を開いてみると、二人、三人が集まるところに神もまた、おられると書かれている。小さな集まりを見過ごされない神の慰めが、三人が一致する中で与えられる。
 三者とは、最小の社会である。二人と一人に分かれる時、そこに強者と弱者が生まれるからだ。常に分裂の危険を持ちながらも、3つが1つであろうと互いに向き合うこと、平和そのものが三位一体と言う神の本性なのだ。
 さて、聖書では、イエスさまに弟子が尋ねている。父なる神とはどのような存在なのか。神の子なるイエスさまは、私が父なる神をあわらす存在だと言われた。父なる神の言葉を受け、その言葉を実現するために来られたからである。
 子は親の言葉を受けて育ち、また、その言葉を実行する。父なる神の思いは、現実の両親を通して私たちに伝えられているとも考えられる。子を愛するが故に生まれてくる感情が言葉を生み、生きる力になる。
 我が父の言葉を思い出す。「信仰は砂の上に杭を打ち込むものだ。何度も、何度も、深く打ち込め。」昨日は立っているかと思えば、今日は倒れかかる私の信仰の杭を思い、揺さぶられる信仰と、そこに注がれる神の憐れみに感謝する。

2016年 5月 15日(日)  説教題:「ことばの源」  聖書:ヨハネによる福音書14章15~27節

 聖霊降臨日を迎えた。今日、家の中で隠れるように祈り合っていた弟子たちが、風のように背中を押す聖霊によって勇気を得て、情熱を持って福音を語りだした。語るべき言葉を失った人々が、どのように、その言葉を取り戻したのだろうか。
 聖霊は、火に例えられる。哲学者であり、教育者であるウィリアム・アーサーは次のような言葉を残している。「凡庸な教師は、ただ話す。良い教師は、説明する。優れた教師は、態度で示す。そして、偉大な教師は心に火をつける。」聖霊は、心に火を付けると言うことなのだろう。
 本来の英語では、心に火を付けるという訳語になっているのは「inspire」と言う言葉が使われていて、日本語では、鼓舞する、激励する、何かを心に思い起こさせると言う意味がある。
 あまり、意味として使われないが、この「inspire」には「息を吸い込む」と言う意味もあり、大きく一呼吸することによって、心が励まされたり、やる気が出るということも考えさせられる。
 いずれにしても、私たちの生きる教師であるキリストは、この偉大な教師だったと言える。今も、私たちが手にする聖書から響いてくる言葉に、私たちの心に火を付けるものが多くあるからだ。
 今日の聖書個所であるヨハネによる福音書では、聖霊とは真理の霊であると書かれている。真理とはキリストのことなのだが、私はこう考える。社会一般では、よく心理の方が注目される。心理とは、その時の人間の行動から思いを読み取ることだが、真理とは、そのような一瞬ではなく、一生をかけて人間とは何かを教えてくれる存在なのだと。
 そして、もう1つ、ヨハネによる福音書では聖霊を弁護者と読んでいる。より端的に言えば助け手と言う意味だろう。何を語ればいいか分からない時に、語る言葉を与えてくれるのが聖霊である。
 聖霊は教会を結び付ける糸のような役割がある。神と人、人と人をつなげてふどうの木にするのだ。そして、出会いから言葉が生まれる。聖霊による出会いから、私の前にいる人に、今、必要な言葉を神様が教えて下さるのだ。


2016年 5月 8日(日)  説教題:「見えないもの」  聖書:ヨハネによる福音書7章32~39節

 今日は、野外礼拝と言うことで、出合いの森までやってきました。見てください、上に薄紫に色付いた藤が至るところにあります。いつもの教会堂も安心しますが、この藤棚も生きていて、礼拝に参加しています。
 「見えないもの」とは何でしょうか。このような自然に来る度に思うのは、神様が小さな命をたくさん作られたことです。先程から木から落ちてくる毛虫、風にそよぐ藤、足元に生える草。それらすべてに神様が命を与えられたのです。
 そのような小さな命に目を向けるには、野外礼拝は良い機会だと思っていましたが、今日は、そのような小さな命だけではなく、私たち自身に在り方について、「見えないもの」を考えたいと思います。
 ある信徒の方が、この藤の写真と共に書いていました。引用しますが、『私たち現代人は信教の自由を保障されていて、キリスト教信徒であることを理由に迫害や不利益を被ることはありません。いま、教会で一番気に掛かることは、教会の外との問題よりも、教会内の人間関係に疲れて居場所を見失うことだと思います。「等しく主イエスに救われた者」の認識が希薄になっているのでしょうか。』
 この方が心配しているのは、教会の中にある見えないもの、見えない壁についてだと思います。教会も社会の一部であり、社会と同じく疲れ果てることもあり、また、社会と同じ考えで人を色分けする危険もあると言うことです。
 私はこの言葉を気にかけながら、藤の花を見てふどうの実を思い出しました。1つ1つ、大きさの違う実が一本房につながっています。教会もそうなのです。それぞれが違う考え、環境、信仰を持ちながら、1つになろうとするのです。
 それぞれの違いがあることは当然だからこそ、私たちにはキリストの十字架があるのだと思います。十人十色の私たちの前に、ただ1つ、キリストが犠牲になられた、この出来事が私たちを1つにするのです。
 今日は野外にいるのでよく分かります。教会とは建物ではなく、ここにいる私たちが教会なのです。私たちが1つである時、見えない教会がしっかりとここにあるのです。


2016年 5月 1日(日)  説教題:「ひとりではない」  聖書:ヨハネによる福音書16章25~33節

 「わたしは既に世に勝っている」この言葉を最後にキリストは十字架に向かっていく。弟子たちに遺す最後の言葉がこれだったのだ。十字架の死は本当に勝利だったのだろうか。弟子たちもそのことを何度も考えただろう。

何事においても、既に気持ちで負けていることがある。そして、気持ちで負けている時の結果は、当然負けがやってくる。相手の強さ、賢さ、自分の無力さ、様々なことが原因で勝負の前から負けていることがある。

当初、十字架の死は、弟子たちにとって、敗北そのものだっただろう。師を失うだけでなく、その死が犯罪者として裁かれ、自分たちの身分も疑われたからだ。死はそれまで積み上げてきたものを破壊する無意味だと思われた。

しかし、その時に弟子たちが思い出したのがあの言葉、「わたしは既に世に勝っている」だった。不思議な感じだった。でも、ただの負け惜しみには聞こえなかった。そこに新しい生き方を感じたのだ。

どのような結果であれ、勝つことを信じて生きるのだ。人の目には敗北に見えても、神様の目には勝利なのだと。苦しみに勝ち、悩みに勝ち、憎しみに勝ち、そして、ゴールに待つ神様に抱かれることを求めて進む。

マラソンと言う競技は、その昔、勝利を伝える兵士が走った距離をもとにされていると言う。人生はマラソンとも言われるが、私たちが生きるのは、最後に、喜びを伝えるために走る。その最後に残る笑顔が勝利のしるしなのだ。

弟子たちが敗北だと思った十字架は、自分たちを導く柱となった。まるで、マラソンの中、苦しみを抑えんながら「次の電信柱まで、次の電信柱まで」と自分を言い聞かせるかのように、十字架を目指して進むのだ。

この苦しみは何なのだ、そう考え、足を止めて進めなくなることがある。しかし、キリストもそうだった、この十字架は何なのだと思のかもしれない。それでも、神のみ心として受けた。その十字架があるからこそ、この長い長い、生きると言う戦いがひとりではないことを知り、そこに私たちは勇気をもらう。