説教要約(4月)

2016年 4月 24日(日)  説教題:「憎まれっ子は世に」  聖書:ヨハネによる福音書15章18~27節

 憎まれっ子は世に憚る、ということわざがある。これは、皮肉を込めて抜け目なく上手く立ち振る舞う人のことをっているのだろう。しかし、聖書には、私たちが世で憎まれて、憎まれっ子になるということが書かれている。
 この聖書個所に書かれていることは、イエス・キリストが世に憎まれて十字架にかかったように、それに従う私たちも同じような困難に遭うと言うことが書かれている。
 このヨハネによる福音書15章は、その初めにキリストと私たちとのつながりが書かれている。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」
 この言葉を念頭にしながら、今日の箇所を読むときに、この世とはキリストとつながりがない状態を意味しているのかもしれない。お互いのつながりが見えない時こそ、互いに憎み合うことになるのではないだろうか。
 ヨハネによる福音書が書かれた時代、キリスト教への迫害があったことは十分に想像できる。そのような厳しい中で、どのようにこの迫害を乗り越えるかを信徒たちは考えた。そして、その答えは、苦しみこそ、十字架に近づく道だったのだ。
 私たち日本人にとっても、このことは他人事ではないだろう。宗教の自由が認められているとはいえ、見えない宗教が生活の中で根を張っているのが現実である。面白いことに日本では「それは宗教ではない、習慣だ」と言う言い訳でそれを通そうとする節がある。
 そのような方便はさておき、寛容な心を持ちながらも、私たちはキリスト教徒であることを様々な場面で語る機会があり、同時に、小さな十字架として、周囲の偏見を受けたり、余計な負担を負わなければならない時がある。
 そのような中で、私たちは社会からはつながりを感じることはできないても、キリストに、いつも、つながっていることを知るのである。キリストにつながっているならば、何も恐れがないことを知るのである。

2016年 4月 17日(日)  説教題:「何もかもご存知です」  聖書:ヨハネによる福音書21章15~25節

 ヨハネによる福音書は、ペトロとイエス様の会話を持って終わっている。教会が大きくなっていく中で、ペトロの地位も重要になってきたことを意味しているのだろう。模範者としてのペトロが描かれている。
 イエス様との会話の中で、「愛しているか」と三度も問われている。これは、ペトロが三度も、イエス様を知らないと嘘をついたことと関係がある。ペトロがそのことを反省していることを知って、イエス様は聞いている。
 二人の会話から、私たちは神様がどのような関係にあったとしても、和解の時が与えられることを知る。もう顔を合わせることが出来ない場合であっても、神様の導きによってペトロがそうしたように、和解する時がある。
 注目したいのは、イエス様の語る愛と、ペトロが答える愛の意味は違っている。イエス様は「神の愛(アガペー)」で聞いているが、ペトロは「友の愛(フィレオー)」で答えている。
 ペトロの心情を察するに、イエス様を裏切った自分が神の愛などとは答えられなかったのかもしれない。しかし、この心をイエス様は知っておられた。三度目に聞かれた時には、イエス様の方から友の愛に言葉を変えて下さった。
 私たちの足りない部分を、イエス様はペトロのように赦してくださっていることを知る。あなたのできることで、神を愛しなさいと言っておられるのだ。
 ヨハネによる福音書は、20章で一度終わりを迎えている。その時にはトマスとイエスとの会話の中で「信じているか」が問題となった。しかし、今、21章でペトロとイエスとの会話では「愛しているか」が重要だとされている。
 私たち、神様に導かれた集まりとして、信じているかと言うことを重要であるが、同時に、私たちが互いに愛しているかも大切なのだと言う。信頼と愛は常に互いに助け合うことを教えている。
 ペトロは、足りない自分を知って、イエス様に委ねている。[ すべてはあなたが何もかもご存知です、と。そのように、私たちの語る前からすべての思いを神様が知って下さっていることを理解し、委ねていきたい。

2016年 4月 10日(日)  説教題:「あの喜びを生きる糧に」  聖書:ヨハネによる福音書21章1~14節

 ヨハネによる福音書21章は不思議に包まれている。それは、20章の最後で「本書の目的」が書かれており、一見すれば物語が終わったように思われる。恐らくは、時代を後にして、この21章の復活物語が追加されたと推測されている。
 その21章の物語はなぜ、必要だったのだろうか。復活のイエス様はマリアに出会い、トマスに出会った。イエス様に会いたいと思うマリアにも、復活を疑っていたトマスにも、新しい出会いの中で復活の命を二人は受け取っている。
 その復活物語の後、7人の弟子たちに復活のイエス様は現れた。21章の後半では弟子のペトロと語り合う場面が印象的に描かれている。そこを読み取れば、教会が発展していく上でペトロの立場が重要になり、福音書に残す必要が出たのだろう。
 さて、今日は7人の弟子たちが漁に出たところ、復活のイエス様の声を聞いたと言う物語を読んだ。この弟子たちは、元はガリラヤ湖の漁師だったこともあり、生きるために仕事に戻ったようである。
 十字架で死んだイエス様の凄まじい姿を思いながら漁をしていたのだろうが、その漁は思うようにいかなかった。仕事が上手くいかなかった時、人はどうするだろうか。何が問題だったのか、誰が問題だったのか、そのようなことを考えるものだ。
 しかし、弟子たちはそのようなことをしなかった。誰もがイエス様を見捨てて逃げてきた罪人だということを感じていたからだ。そして、その中に復活のイエス様の声が響いた。諦めるのではなく、その手にある網を投げ入れて、挑戦せよと。
 漁師である弟子たちが、一般生活である漁をするのは当然である。福音書にはイエス様に出会う前の弟子の姿と、イエス様に出会った後の弟子の姿が漁をする場面で描かれている。
 復活のイエス様に出会った弟子たちは変わっていた。見えない不安の広がる海に向かって、自分の手にある網を投げ込み、また、ペトロのように自ら飛び込んでいく勇気を得たのだ。
 私たちは不思議な信仰を持っている。厳しければ厳しい時こそ、辛ければ辛い時こそ、イエス様の声がささやくのだ。十字架の上から、頑張ろうという励ましがある。

2016年 4月 3日(日)  説教題:「傷に触れる意味」  聖書:ヨハネによる福音書20章19~31節

 復活を信じることができない、そのような気持ちを隠さずにそのまま語った人が聖書にもいました。イエス様の弟子の一人でトマスと言いました。周りの人々に恐れずその疑問の言葉を投げかけました。

 トマスは双子だったと言われています。「疑う」は英語で「Doubt」と書きますが、その本来の意味は2つの心を持つことだそうです。2つの気持ちの間で揺れ動き、疑ってしまうのでしょう。そして、トマスが双子だったと言うことも、2つの気持ちで揺れ動く姿をある意味表現しているのだと思います。
 ヨハネによる福音書はこのトマスに注目しています。今日の場面以外にも彼が発言した内容が2回に渡って記載されています。1116節ではイエス様の命が狙われていることを知り、一緒に死ぬ覚悟あることを雄弁しています。
 しかし、結果はどうだったでしょうか。トマスは死の恐れを前に逃げてしまいました。イエス様を独りにしてしまったのです。彼のショックは大きかったようで、弟子たちがイエス様の復活を聞いた日にも集まりに出て来ませんでした。
 そして、復活の話を聞くと、感情をあらわにして否定したのです。復活のイエス様がいるのなら、十字架にかかった傷を触れて、それを見るまでは信じないと。その頑固な言葉の裏に、イエス様への思いや自分への後悔を痛いほど感じます。
 トマスの言葉の中に、傷に触れてみないと信じないと言う気持ちがありました。傷に触れてみないと分からないことがあるのかもしれません。復活のイエス様に会うということは、私たちの罪を背負って受けた傷を、私たちが見て、触れて、感じることなのです。
 カトリックの司祭でヘンリ・ナウエンと言う方がおられます。大学の教授をされるほどの有名な方ですが、その著書に「傷ついた癒し人」があります。キリストは傷を受けられたからこそ、傷の痛みを知り、それをいやすことが出来ると教えています。
 復活のイエスに会い、十字架の傷を知る。それは、私たちの罪の傷跡であり、その罪の深さを知るからこそ、赦しの喜びを知っています。赦しの喜びを知っているからこそ、罪に悩む人々に心を開くことができます。十字架は人と人をつなぐのです。