説教要約(2月)

2016年 2月 29(日)  説教題:「その日には」  聖書:イザヤ書12章1~6節

 * 交換講壇 倉敷水島教会 松井 初牧師
 今月の聖書箇所は、旧約聖書のイザヤ書を共に学んでいこうと思います。イザヤ書は伝統的に、139章が第一イザヤ、4055章が第二イザヤ、5666章が第三イザヤに分類されています。イザヤ書は旧約聖書にある15の預言書(三大預言書と十二小預言書)の冒頭に置かれ、全預言書の筆頭に位置しています。時代背景は、第一が南ユダ王国の崩壊からバビロニアの捕囚へ、第二がバビロニア捕囚中、第三がバビロニア捕囚末期からエルサレム機関と第二神殿建設までとなっています。
 本日の聖書箇所の12章は、212章の部分の結びをなす「救われた者の感謝と讃美の歌」といわれる個所です。この箇所は「ユダとエルサレムの託宣」と呼ばれる所です。11章でイザヤの預言は頂点に達しています。511章は、ぶどう畑、その中にある南ユダ王室、審判の代理人としてアッシリアの勃興、そして諸国民の民にあっての神の新しいぶどう畑のための未来の運命を跡付ける。
 南ユダ王アハズと「この民」の不服従は、アッシリアの獅子の手による審判とまたインマヌエルの指導のもとに、新たに帰還する残りの者への可能性を、そしてエッサイの株からの芽の未来の治世の両方を生じさせる。それ故、預言者が全ての残り者が帰ることを確実にするための備えられるであろう広い道を描くように、211章の最後に希望が備えられているのであります。
 1節では、《その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。》と、第一イザヤで「慰める」と神がはっきり言われているのはここだけである。
 2節で、《見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」》でイザヤは、主なる神は全くの信頼における御方であることを告白している。《主》と《救い》とは、「主は救い」という名のイザヤを連想させています。
 3節で、《あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。》と《救いの泉から水を汲む。》ことは、主なる神こそが全ての救いの源泉であると高らかに宣言しています。
 45節の《その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。/ 5主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。》と、歴史的記述を伴った賛歌といわれる、詩編10512節の《主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。 2主に向かって歌い、ほめ歌をうたい/驚くべき御業をことごとく歌え。》と同様に、聞くイスラエルに、また私たちに対して神賛美を促しています。これまでも、またこれからも神が導いた歴史であり、それを約束した神への言葉である。ここで人間のあらゆる限界を超えた、神の御業をたたえざるを得ないことに突き当たるのであります。
 最後の6節で、《シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」》とイザヤは、シオンに住む者よと神の庭に住まう者、すなわち、礼拝の中にいる私たちに向かって声高らかに、あまりにも臨場感たっぷりに訴えかけています。
 レイモンド・アバの『礼拝―その本質と実際』によれば、《キリスト者、すべてのキリスト者は「祭司の国」を形成している。しかし、このことはすべてのキリスト者がただひとりの仲保者、イエス・キリストによって神の臨在に直接近づくということを意味するだけではなく、しばしば見過ごされているもう一つの意味を持っている。すなわち、祭司の任務は犠牲をささげることであり、それが彼の存在理由である。もし新約聖書に述べられているように、キリスト者が「祭司の国」を形成しているとすれば、おのずから祭司たちの共同体全体としての任務は神に犠牲をささげることであり、たえず「讃美のいけにえ」をささげ、かつみずからを「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」としてささげなければならない。言いかえれば、教会の主要な機能のひとつ、その存在理由の一部は、神に対して共同の礼拝をささげることである。

 このように聖書は、それ自身ではただ証しであり得るに過ぎない。それは、預言者・使徒たちが証しする方によって、各章されることが必要である。教会を保持し給うのは、第一義的に・本来的には。我らが主、イエス・キリストである。そしてイエス・キリストが聖書を確証し給うのは、端的に言えば、イエス御自身が聖書の内容であり給う事によってであり、聖書が語りまた開かれる場合には、イエス御自身が聖書の中に教会の生ける主として現われ語り行動し給う事によってである。
 ルカによる福音書1831以下で、《イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。》と。このイエス・キリストの出来事により、我々に初めて神の恩寵の出来事があらわにされたのであります。この十字架の先から差し込む光によって、初めて人間は自身の価値を知り得て、神の栄光の何たるやを知り得たのであります。
 従ってイエスにおいて神の恩寵があらわになることによって、我々には律法や預言を使信とする旧約聖書の意義が再び我々に鮮明にあらわになることである。我々は、旧約以来神が我々のためになし給うことから、神が我々に対して欲し給うことが読み取れるのである。何故なら、神の恩寵は、我々のための恩寵であり、また我々に関わるものだからである。神がその恩寵においても、否、その恩寵においてこそ示し給うことは、神は如何に我々のために、また我々のために対して行動し給うことは、神ご自身の内部で密かに始終しないのであって、或は律法において、或は預言において、そして最初で最後の出来事である御子イエス・キリストの出来事における十字架において我々のために神の現実を、如実に御姿を以って行動され示し給う御方であります。

2016年 2月 21(日)  説教題:「湖畔にのぞむ教会」  聖書:マタイによる福音書9章35~38節

 1950年2月19日土曜日、四人の女性が祈祷会を始めたことで湖山教会は生まれた。創立66周年を迎えて、この鳥取の地に与えられた福音を感謝しつつ、新しい時代への展望を開きたい。
 まず、2つの出来事を覚えたい。1つには、湖山教会の活動を支えてきた「いちごジャム」である。根強い人気があってバザーなどでは多くの人へ届けられて喜んで頂けたが、それも今年で最後になる。
 このいちごジャムは、鳥取農協が生産していたものである。乾燥した土地を好むいちごの習性もあって、昔はこの湖山にも多くのいちご畑があった。しかし、農業に関わる人々の苦労は絶えず、厳しい暑さの中での農作業は「嫁殺し」と言われた。
 湖山教会の創立者の一人、上山道乃姉の御子息上山信一氏は農協に関わっておられた。一人の先輩の言葉、「農民一人ひとりでは農民の暮らしは守れない。イチゴの値段もそうだ。」がきっかけで農協に従事することとなる。
 捨てるようないちごをジャムに変えたのは、農協によって知恵が集まったからである。缶の中のいちごジャムは、農協の姿であり、小さな一人一人が一致団結して戦っていく姿だったのだ。湖山の地に根差すジャムと出会えたことは教会にとって大きなことだった。
 もう1つの出来事は、昨年1129日に創立者の一人、天野満代姉が永眠されたことである。天野姉は初期の協力者であり、結婚後は少しずつ教会と距離が出来たが、それでも、「ゆけども ゆけども」の讃美歌を生涯、愛しておられたという。
 この2つの出来事は教会にとって忘れてはならないことであり、寂しさを感じつつも、与えられた神の恵みを感謝する一時でもあった。聖書は、ガリラヤ湖の周りでイエス様と出会った群衆たちが「飼い主のいない羊」のようであったという。
 ガリラヤ湖の湖畔でイエス様を求めて続ける群衆と、湖山池の湖畔で生きたキリスト者が私の中で重なる。そして、イエス様の憐れみが同じように私たちの教会にもあったからこそ、ジャムと出会い、天野姉をも与えられたのだ。
 ガリラヤとは「辺境、田舎」と言う意味になるそうだが、この湖山の地は、人の目からすればそう見えるとしても、神の目にはしっかりと留まっている、66年間そうだったことを深く感謝し、その喜びを神様にお返ししたい。

2016年 2月 14(日)  説教題:「寂しさと誘惑」  聖書:マタイによる福音書4章1~11節

 210日に灰の水曜日を迎え、教会は受難節に入りました。受難節とは、イースター(今年は327日)から40日間をさかのぼって、キリストが十字架にかかるまでの苦しみ、十字架による死の痛みを覚える期間です。
 聖書の物語は、イエス様が悪魔から誘惑を受けられましたが、それに打ち勝ったことが書かれています。悪魔からの誘惑は人間の弱さを突いています。受難とは、その人間的弱さを支えながら、そこに見いだされる神の力を教えています。
 悪魔の誘惑は3つに分けることができます。1つ目は食べること、食欲と言う欲求に負けてしまう人間の弱さを、2つ目は、自分のことを神様は本当に守ってくれるのだろうかと言う疑いを、3つ目は、国家や世界を支配する権力への憧れと服従を、悪魔は利用してイエス様に言い寄りました。
 しかし、イエス様は、人がパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きること、疑って神を試すことをすれば、自分が傷つくこと、権力ではなく、神様にだけ仕えることを悪魔に答えました。
 先日、2.11集会で救世軍元士官の丸畑先生から「後味の悪かった救世軍弾圧」と言う題目で講演を受けました。第2次世界大戦への準備に入る時代、国家は宗教をも統制しよう考え、体制に反するものへは弾圧を行いました。
 救世軍は「慈善鍋」によって生活困窮者への炊き出しを行うなどの社会的貢献をしていましたが、政府に目を付けられたのは、当時、日本と対立するイギリスに救世軍が本部を置いていたため、スパイ容疑がかけられました。
 実際に救世軍を取り調べたのは東京憲兵隊で、その司令官は大谷敬二郎氏でした。大谷氏は、宗教思想に対して敬意を払っており、信教の自由は保障されるべきだと言う理解から干渉することを好ましく思っていませんでした。
 しかし、当時の防衛庁からの圧力を受けて憲兵隊は取り調べを行い、いくつかの問題点はあったとしても、処罰の対象になるものは出てきませんでした。「後味の悪かった」とは、この大谷氏の気持ちだったと言えるでしょう。
 私たちの社会では、飢えや不信よりも、権力による圧力が最も問題です。人が大きな力を持つと悪になりえることを知り、神様が支配する世界であることを忘れないでいたい。

2016年 2月 7(日)  説教題:「ささげる気持ち」  聖書:ヨハネによる福音書6章1~15節

ヨハネによる福音書のテーマは「永遠の命」である。5000人の給食の話は、イエス・キリストがどのようにして永遠の命を多くの人々に分け与えたかを語っている。すべての人に分け与えられる命として、キリストは生まれたのだ。
ヨハネによる福音書には最後の晩餐が描かれていない。それは、儀式化した聖餐に否定的だったのかもしれない。新約聖書にある手紙にはキリスト教徒たちの集まりの中で、しばしば、食事について問題が起こり、不公平が生じたり、礼儀作法がなかったりと、神の国を表現するはずの食卓が感謝と喜びに満たされていなかった。
そのような反省から、パンとぶどう酒に込められた意味を、5000人の給食の話に移したと考えられる。食事のために用意されたのは5つのパンと2匹の魚だった。5つのパンは、モーセ五書の律法を意味し、2匹の魚は復活したイエスに出会った弟子たちを暗示している。魚には「調理された魚」の意味があり、それは、ヨハネによる福音書20章で出てくる復活のイエスが食べた焼き魚と一致するからである。
ヨハネによる福音書の持つ特徴として、もう1つ、5つのパンと2匹の魚を差し出した人物がある。ここでは少年となっている。同書4章に出てくる役員の息子であり、死にかかっていたところを、キリストにいやされた少年である。
更に、4章で出てくる親子はカナの出身だったとされている。カナとは、イエス様が初めて奇跡を行った場所であり、結婚式の場面で喜びの祝宴を上げる人々のために、水をぶどう酒に変えた話が同書2章で描かれていた。
このようにして、この福音書は1つ1つの出来事をつなぎ合わせながら、パンとぶどう酒による聖餐の意味を考えている。ぶどう酒はキリストの血も肉も、全ての人が喜びに満たされるためにささげられたのである。
自分の食事をささげた一人の少年はいやされた時にこう言われている。「あなたの息子は生きる」。これは心配する両親に語られただけでなく、天の父なる神から遣わされたキリストが復活することを暗示した言葉であった。
幼い少年のように命をささげられたキリスト。そのキリストのために私は何を返すことが出来るだろうか。キリストのように、神のため、人ために、私も何かをささげることができるなら、パンとぶどう酒の意味は果たされる。