説教要約(12月)

2016年12月25日 (日)  説教題:「飼い葉桶に眠る御子」  聖書:ルカによる福音書2章8~21

 クリスマス、おめでとうございます。今日、2000年以上も前の出来事ですが、救い主がこの世界に誕生したのです。それは、神さまからのプレゼントでした。世界は滅ばされるよりも、救われるというメッセージでした。
 さて、救い主キリストが誕生したことはうれしいことですが、なぜ、幼い赤子の姿になって来られたのでしょうか。また、なぜ、人間の姿にならなければならなかったのでしょうか。
 ある時、小さな動物を抱くことがありました。その時に言われたことですが、「小さな生き物を抱くときは座ってください。人間が立っている高さは動物たちにとってはビルの屋上のようなものです」と教えてもらいました。
 神さまにとって人間も小さな存在です。ですから、人間の目線になるために、人間として地上に生まれたのです。人間を理解するために、神であることを捨てて弱い存在になってくださったのです。
 救い主が生まれた場所は自慢できるところではありませんでした。何よりも、小さな救い主が寝かされたのは「飼い葉桶」、つまり、動物のエサ箱だったからです。おそらく、動物の臭いもしますし、わらが入っていればチクチクしたでしょう。
 「飼い葉桶」はシンボルです。救い主を受け取った私たちの心を暗示しています。粗末なところに神さまが来てくださったのです。私たちの汚れた、罪深い心に神さまは来てくださったということです。
 そして、キリストの誕生を祝った羊飼いも私たちの姿を暗示します。羊飼いは仕事のために神さまを忘れてしまった人々だからです。人間の方は神さまを忘れてしまいましたが、神さまの方が一人一人を覚えて下さっている、その深い愛がクリスマスはあるのです。だれも、一人で過ごしてはいけない。神の家に来なさいと声をかけて下さっています。

2016年12月18日(日)  説教題:「君の名はイエス」  聖書:マタイによる福音書1章18~23

 最近、「君の名は。」という映画は流行していると聞きました。夢の中で大切な人と出会うというテーマが描かれているそうですが、夢のなかでだから会える人、その気持ちに日本人は強く共感するようです。
 聖書の中でヨセフは夢を見て天使に会いました。天使は男の子が誕生して、その子の名前をイエスとつけるように命じています。同時に、インマヌエルと言う名前も出しています。
 このインマヌエルについて福音書はほとんど語っていません。突然、イエスとインマヌエルと言う名前が出され、その後にイエスと名付けられる結末を知っている私たちは、この意味を深く問わずにそのままにしているように思います。
 このインマヌエルは「神が私たちと共におられる」と言う意味であり、預言書のイザヤ書に出てくる言葉が引用されています。それは、昔にいたアハズ王という人と関わっている言葉です。
 アハズ王は悩んでいました。強大な国家アッシリアを前にして国家存亡の危機にありました。隣国から同盟を組もうという呼びかけがあったのですが、同盟によって自分の地位が崩れないかを心配していたのです。
 結局、国家存亡の事態の中でアハズ王は隣国と同盟を組まず、何と、アッシリアにひれ伏してしまうのです。このような状況を見た預言者イザヤは、神さまを信じないで人間の力を信じたことを激しく非難しました。
 私たちは弱い存在であり、アハズ王のような失敗をします。何よりも、力の強さに恐れてしまいます。でも、神さまが共にいるから恐れてはならない、それがクリスマスのメッセージなのです。
 インマヌエルとは、神さまを信じ切れずに負けてしまったことの記憶です。だから、今度こそは、イエス様は私たちの中に生まれて下さったのだから、恐ろしい時にこそ、自分らしい選択をするための合言葉なのです。

2016年12月11日(日)  説教題:「共感のない時代」  聖書:マタイによる福音書11章2~19

 3本目のろうそくに火が灯りました。喜びと悲しみが混在する世界の中で、悲しみにおおわれず、喜びを見つけ出す努力をそれぞれが持つことができますように導いてください。
 聖書の中では、ヨハネさんが質問しています。待っていた救い主は、イエスさま、あなたでしょうか。ヨハネは冤罪によって牢に入れられ、死を覚悟する中で信じるべき道を探していました。
 そのヨハネの質問を受けてイエスさまは話し出されます。ヨハネは当時、民衆たちのリーダー的な存在でした。そのような人でさえ、道を見失ってしまうのです。牢獄とは正に、不自由さを感じる私たちの世界を象徴するような場面ではないでしょうか。
 イエスさまの目から見た世界は、とても、残念な様子でした。子どもたちが遊んでいる姿を見て、こう例えられました。
 『を吹いたのに、踊ってくれなかった。
 葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
 子どもたちが笛を吹いて結婚式ごっこしたり、葬式ごっこをする様子を見ながら、世界は喜びも悲しみも共に感じることが難しいと言われたのでした。それはまるで今の時代にも通じることでした。
 私たちは情報化社会に生きています。インターネットを通じて遠方の人々と交流できる一方で、興味のあることに意識を集中しがちになります。自分に関係のないこと、利益につながらないことは知ろうともしない世界です。
 私たちは牢に閉じ込められたヨハネのように、情報と言うものに囲まれて真実から遠のいてしまっているように思います。本当に知ろうとする努力は、文字で検索するよりも難しいことです。それでも、「生きた言葉」を受け取ることがイエスさまの願ったことなのです。

2016年12月4日(日)  説教題:「到来の予感」  聖書:マタイによる福音書24章36~44

 アドベントに入りました。一本目のろうそくに火が灯りました。この小さな希望の光が世界に広がる貧困、暴力、搾取と言った闇を払ってくれることを神さまに祈ります。イエス様が来て下さる準備を始めましょう。

 アドベントとはキリストが到来するまでを待つ期間を言います。そして、ろうそくに火をともしながら、クリスマスまで数え待ちます。一本目のろうそくには「希望」と言う名がつけられています。
 聖書に記されたクリスマスの物語を見る時に、私たちは希望と言う言葉に抱く淡い期待感を拭い落とさなければなりません。希望をもって生きることは、同時に、その希望のために果たすべき役割を自覚することでもあるからです。
 クリスマスの希望、それはイエス様が赤ん坊の姿で生まれたことは、希望とは何もせずに放置すると消えてしまうということです。その希望がしっかりとした幸福に至るまで育てていく必要があるからです。
 つまり、希望とは勝手に私たちを幸せにしてくれる便利なものではないのです。希望とはすぐに食べられる実ではなく、育てる必要のある種なのです。しかし、必ず、大きく成長して誰もが喜ぶ大木になります。
 そして、クリスマスを待つ時に大切なことは、私たちの生きる目的がキリストに出会うことになっているか、それを確かめることなのです。もう何年も生きてきた方、様々な計画のある方もおられるでしょうが、キリストに出会うことが私たちを根本から変える出来事なのです。
 キリストは来られます。どの人の心にも来られます。その瞬間を逃さないように、今、聖書に向かい、生きる目的を確かめていきましょう。