説教要約(11月)

2016年11月20日(日)  説教題:「えがおのせんせい」  聖書:創世記21章6

 今日は、子ども祝福合同礼拝です。イエス様は子どもが大好きでした。子どもを真ん中にしてお話をしておられたことでしょう。社会においても、家庭においても、子どもたちは真ん中で大切されることをイエス様は願っておられました。
 さて、私の話で恐縮ですが、幼稚園に通っていたころ、先生は何でも出来るすごい人でした。ピアノは弾けるし、歌は上手だし、絵も、字もきれいに書いていました。何よりも、給食を食べるのは一番早かったのを覚えています。
 その先生に聞いたことがありました。先生はとてもすごいけれど、自分には何もうまくできることがないと。そうすると、先生は、いつか、自分にも誇れるものがあるはずだと言ってくれました。
 そして、こうも言ってくれました。先生は、みんな(園児たち)に勝てない部分は1つあるんだよ。それは、どれほど笑顔を作っても、みんながするような元気でかわいい笑顔はできないよ。そういわれたことを思い出しました。
 さて、クリスチャンのお父さんが話してくれたことを紹介します。子育てに追われて忙しい時、神の愛について子どもから教えられたと言っていました。例えば、子どもを車から降ろすときに、頭をぶつけたりして泣くことがあります。他にも、親の失敗で色々な痛みを受けて泣きます。
 でも、子どもは笑顔で返してくれることにほっとします。本当に赦されていると感じます。足りない親なのに、これほど素敵な笑顔を見せてくれるのは、神の愛を教えてくれていると思ったと言っておられました。

 子どもたちは、えがおのせんせいです。誰もを幸せにする神の愛を伝える使者なのです。

2016年11月13日(日)  説教題:「背を向けてはならない」  聖書:マタイによる福音書5章38~48

 11月の第2週は、日本基督教団の障害者週間となっています。教団の須賀川教会HPにこのような言葉がありました。「障害者は決して憐憫(Pity)の思いで、可愛そうな存在として見るべきではなく、共感(Sympathy)しあうことが大切だということです。」
 7月に神奈川で起きた津久井やまゆり園の事件です。元職員が障害を持つ方々を襲い、多数の死傷者が出ました。何よりも、障害者は不幸を作るものであり、殺すべきだという考えに世間は戦慄しました。
 いわゆる優性思想は古くからありました。有名な一人はヒトラーですが、彼は、障害者だけでなく、病気の患者、精神障害者も含めて不妊治療を強制し、また、「恩恵死」といって安楽死させ、約20万人が犠牲になりました。
 その時代、ヒトラーの行為に抵抗した一人の牧師がいました。「健康な者が病人や弱者を引き受けること、それこそは真の民族共同体、最良の団結を意味するものではないでしょうか。」と声を上げました。
 水野英尚さん(地域生活ケアセンター小さなたね所長)は、あの事件は憎悪犯罪(ヘイトクライム)と言われていす。事件によって、社会の中にある障害への不快感が憎悪として現れ、むきだしの本音を出したのだとも。
 私たちが生活の中で、障害者と触れて小さな違和感や不快感を持っていることは明確なのです。そして、その問題に向き合わない限り、それは時に憎悪を生み出して事件へと発展するのです。
 今日の聖書では復讐することを禁じています。そのようなことは分かっています。しかし、現代の複雑化した社会において、復讐の憎悪は必ずしも直接的ではなく、間接的に弱者へと押しやられて行くのです。障害者に対する憐みと憎悪は紙一重であり、安易な憐みもその人に背を向けています。それよりも、共感する相手として、あなたはわたしだという思いを神さまに与えられたい。

2016年11月 6日(日)  説教題:「言葉を柱に、思いを土台に」  聖書:ローマの信徒への手紙3章21~28

 私たちは、ただ、故人との思い出にひたるだけでは十分ではありません。それぞれが生きた思いを受け止め、言葉を柱に、思いを土台にして、更に進んでいくために、「命が命を支えている」ということを知るために思い出すのです。
 愛する人との別れから、どれほどの時間が経ったでしょう。時間の長さは関係ないのかもしれません。精神科医のエリザベス・キューブラー・ロスは死を受ける5つの段階を提唱しました。
 1.否認と孤立、2.怒り、3.取引、4.抑うつ、5.受容。すべての人に当てはまるわけではありませんが、私たちが体験したものを客観的に整理することが出来ます。これらをくり返しながら、否認と受容の中で揺れ動きます。
 愛する人の死をどのように表現することが出来るだろうか。それに1つの答えをくれたのはオディロン・ルドンの絵「心の浮かぶ蝶」でした。彼は、人間の魂を蝶として表現し、亡くした息子が今も、生き生きと飛び回る様子を描き出しました。
 偶然にも、ヒトラーが繰り広げたユダヤ人絶滅計画によって造られた収容所の壁に蝶の絵が描かれていました。前述の精神科医ロスは、それを発見します。そして、なぜ、あの苦しみの中で蝶を描いたのかを考えました。
 ロスは、あの絶滅計画から生き残った女性に話を聞くことができました。彼女はこういいました。「憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることが、生き残った意味なのだ」と。
 その言葉から気付きました。蝶の絵は、死んだ人の魂が苦しみから自由になっただけでなく、それを見送った人々にも悲しみから自由になることを意味したということを。
 私たちの神さまは大切な人々との思いをつなぐこともなさるし、それを失くした悲しみから断ち切ることもなさる。そして、十字架を背負うとは、誰かの思いと命の分だけ、私たちが前に進むことなのです。ほら、あなたの中に生きています。