説教要約(10月)

2016年10月30日(日)  説教題:「正義の味方」  聖書:ローマの信徒への手紙3章21~29

 神さまへの信仰によって人間が義と認められることを、信仰義認と言う。特に、新約聖書で手紙を多く書いたパウロの考え方である。パウロ研究でも有名な八木誠一先生の著書「パウロ」を土台にして見ていきたい。
 パウロの信仰には最後まで1つの矛盾があったと言う。十字架による罪の赦しと信仰義認の間にある矛盾である。十字架による赦しは、罪に対してイエス・キリストと言う尊い犠牲がささげられた。つまり、律法の理解の中で、罪の認識とその赦しが行われた。
 一方で、信仰による義認とは律法の外にある。行いによる義認を否定し、信仰のみによる義認を求める。たとえば、行い(十字架での死)と言うものなしに、罪の赦しが与えられるとも考えられるからである。
 パウロの言う信仰とは、アブラハムが模範になっている。アブラハムは神の約束を信じて、自分の故郷を捨てて旅に出た。また、年老いた自分たちに子どもがないことを知りながらも、次の世代が与えられることを希望した。その希望が信仰であった。
 キリスト教の言う信仰とは願うことだけではない。信仰とは、神さまが人間の歴史の中で必ず働くことを期待し、そのために自分の協力する姿勢のことを言う。信じているから行動する。まず、その信念を持つことが義認の始まりなのだ。
 また、義とされるとは生き方が変わることでもある。これまでは自分のためにある命として受けてきたが、信仰によって、この命は自分だけのものではないことを知る。義認とは、自己の願望に抗いながら、神のために生きる姿でもある。
 パウロは言う。神のみが正しいと。そう、人間に正義はない。人間が考える正義の向こう側、正義の彼方にこそ、神の正義がある。私たちに必要なのは、常に自分を悔い改めることなのだ。罪の自覚とその呵責が、神の招くを与える。

2016年10月23日(日)  説教題:「聖書の読み方」  聖書:テモテの手紙2 2章9~13

※ 特別礼拝だったため、要約はありません。
 

2016年10月16日(日)  説教題:「キリストの言葉を生きる」  聖書:ヨハネによる福音書8章48~59

  ※ 講壇交換だったため、要約はありません。

2016年10月 9日(日)  説教題:「一人の命、種となりて」  聖書:ヨハネによる福音書11章45~54   

  ヨハネによる福音書1224節には次の言葉がある。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この言葉をキリスト教は殉教と言う意味で受け取ってきた。  
 上の言葉は十字架で死んだイエスの姿を一粒の麦になぞらえている。十字架の死によってすべての人の罪の代償が支払われたということである。今や、イエスを信じる者は誰でも赦しを得て、救いに入ることが出来るということ。
 この代償と言う考え方はキリスト教の中で重要であるとしても、代償を認めているのではないと思う。この十字架の死は用意されたものであり、人間の嫉妬から生まれた恐ろしい計画でもあった。
 十字架の死を決定した関係者の中に、大祭司カイアファがいる。彼はこう言った。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたには好都合だとは考えないのか。」
 この言葉には裏には犠牲という甘美な考え方が潜んでいる。誰を犠牲にするかを考えるのが権力者の思考である。犠牲はこうして作られ、大義名分を着せられて死んで行くのである。
 十字架は最後の犠牲になることを望んでいた。もうこれ以上、犠牲になる必要はないという意味で、イエス・キリストが最後の犠牲になったのだと理解している。だからこそ、一粒の麦の意味を考え直さなければならない。
 どこかで誰かが犠牲になれば問題は解決すると考えている自分がいる。その考えに対して十字架は問う。なぜ、また、十字架が必要になるのかと。イエスはたとえの中で、いつも、種とは神の言葉として語っていた。だからこそ、この一粒の麦もみ言葉であり、一粒の麦が死ぬとは、み言葉がその人のものになることだと受け取るべきである。聖書の中に、美しい犠牲と言う考えを持ち込んではならない。

2016年10月2日(日)  説教題:「プラチナ」  聖書:コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16~18

 昔、このような遊びがあったことを思い出す。手と手を合わせながら、「しわとしわを合せて、しあわせ」と言う。子どもながらに、言葉遊びの楽しさとともに、しわへの愛着を覚えたものである。
 ある時、なぜ、人間は年を取るとしわができるのだろうかと考えたことがあった。絵本「ぼくとおじいちゃん」(みやもとただお作)では、しわがなぜできるのかを、孫のこぐまへ教える。
 美味しいものを食べると口の横にしわができる。色々なことを考えるとおでこや目にしわができる。痛いことを我慢するとしわができる。そして、最後には、笑うことでしわができることを教えるのである。
 辛いことも、楽しいことも、一本、一本のしわの中に語られている。もし、しわをなくすことができないのなら、せめて、笑顔でしわを増やしたいという思いは素敵だと感じた。
 私たちは敬老祝福を前にして集まっているが、世間での高齢者の扱いはどうだろうか。高齢化問題と言われるが、高齢化の何が問題なのか。長生きは幸せの象徴だったはずなのだが、生きることに肩身の狭さを感じるのはなぜだろうか。
 私は高齢者を指してシルバーというのが嫌いだ。この言葉の由来は、経済成長時代、労働世代の若者を金の卵と呼んだことに対して、非労働者を「銀」として2番目に考えたものだと言う。
 このシルバーに対して、最近では「プラチナ(白金)」という言葉が使われ始めている。白は本来、尊い価値を意味するもの。人生の最高の時である。神様は与えられた命は、どのような時も光輝き、人の心を照らすものである。人生を長く歩んで来られた人々が、笑顔でたくさんのしわを作る。これこそ、神様の祝福ではないだろうかと思う。