説教要約(1月)

2016年 1月 31(日)  説教題:「座り込んで見る風景」  聖書:ヨハネによる福音書5章1~18節

 人間は適応する生き物だと言われる。異常な状況下にあっても、長い期間、その場に生き続けると考えが変わり、何も感じなくなってしまうと言われている。慣れるということは、常に心にスキを作ることだと言うことを忘れてはならない。
 イエス様の目に止まったのは、一人の病人だった。その人は38年間も病気を患っていた。恐らく、多くの医者を訪ね、様々な治療法を試みたのだろうが、その思いとは裏腹に結果は出なかった。
 イエス様とこの病人が出会った場所、ベトザタの池には伝説があり、天使が休むために天から降りてくる場所だと信じられていた。池の水面に波紋が広がる時、天使が舞い降り、その瞬間に池に入る者は癒されると言う。その為に、この場所には多くの病人や悩みを抱える人々が大勢いた。
 イエス様は病人に向かって「良くなりたいか」と質問している。病気の人が良くなりたいのは当然の事ではないか、なぜ、このような質問をされたのだろうか。それはその人が38年間、病気に苦しんだことが原因である。
 病人はこの質問に対して、はい、いいえで答えていない。この人の主張はこうであった。自分を池まで連れて行ってくれる人がいないので、他の人が先に入ってしまう。彼は、他人にばかり目が行き、自分を見る事ができなくなっていた。
 「床」と言う言葉を簡単に読み過ごしてはいけないように思う。ここには、この人が38年間も座り込んで来て絶望と他者への羨望がどっしりと沈殿している。そして、彼はもう、その場から解放されたいと言う気持ちすら失ってしまった。
 イエス・キリストは言う。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 床を担いで歩くとは、長い期間、彼が抱えてきた神への疑念や自分ではどうもできないと言った閉塞感、言い訳をして生きる自分を持ち上げて、その下にあった本当の気持ちを思い出すことである。
 この言葉によって私たちは知る。病気が問題だったのではなく、病気に向きあう人には孤独があると言うことが問題であると。であれば、必要なのは、治そうとして悪い部分を指摘する律法的な考えではなく、キリストのごとく、人として出会い、その人の中に命があることを認めることなのだ。


2016年 1月 24(日)  説教題:「あの時を思い出して」  聖書:ヨハネの手紙Ⅱ1~13節

 ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、当時の小アジアと言う地域にいた同じキリスト教信者のグループが作成したと言われている。エルサレムにある教会を中心とする弟子ペトロたちとは別に育った教会であった。
 この教会には、長老ヨハネと呼ばれる指導者がおり、その長老によってグループ全体の成長は整えられ、また、いくつかに分かれて存在する信者たちには、教育された者が巡回して直接指導をしていたようだ。
 ヨハネの手紙が書かれた理由は、教会の中で間違った理解を持つ人たちに対処するためであった。「惑わす者」と言う名で呼ばれる人たちは、キリストの受肉を否定したと記録されている。
 キリストの受肉を否定するとは、神聖な神が汚れた人間になることはないと言う理解があるようだ。人間が持つ肉体は欲望を生み出す根源とされていたからだ。しかし、そこにこそ、十字架sの意味もある。
 聖なる神が人となり、十字架で痛みと苦しみを味わったということは、これまでの人間の信心においてはショックな出来事だった。それを否定したい気持ちも理解できる。しかし、十字架の上で注目されるべきは、弱さよりも愛なのだ。
 様々な問題が起こる中で長老ヨハネは、キリスト教の掟とは愛だと言うことに気が付いた。異なる環境と新しい発想の中で生まれてくるそれぞれの違いの中で、愛は全てを一致に導くエネルギーなのだ。
 この愛とは、ヨハネによる福音書が伝えるイエスによる洗足であろう。師であるイエスは弟子たちの足を洗うことによって、互いに尊敬と愛とを持つように教えた。相手の最も弱く、汚れた部分にこそ、神の力が働く。
 私たちの様々な出来事は、全く信仰に関係のないことばかりに見えるが、それらは聖書の真理と合わせてみる時に、キリストの十字架を思い出し、神の愛を振り返る時になる。それは、いつも私たちの生活の中で与えられている機会でもある。
 つい、目の前の出来事に心を奪われ、落ち着きを失って右往左往する時に、このヨハネの手紙のように、何が真理なのかを目を閉じて考える必要があるのかもしれない。


2016年 1月 17(日)  説教題:「水を求める鹿のごとく」  聖書:ヨハネによる福音書1章35~51節

 イエス様が弟子を連れて伝道されたことは知られている。ヨハネによる福音書以外では、イエス様が目を留めて呼びかけると、弟子たちが従順に従う様子が描かれている。しかし、ヨハネによる福音書には違いがある。
 まず、注目するのは、二人の弟子が実は洗礼者ヨハネのもとにいたことである。これは、弟子たちがヨハネの側を離れてイエス様のもとに行くことで、預言者の時代が終わり、福音の時代が到来したことを意味している。
 さらに、心にとめておきたいことは、弟子たちの姿である。師である洗礼者ヨハネに言われたにせよ、彼らは自分たちの足でイエス様を探して見つけたのである。他の福音書では受け身だった弟子たちは、ここでは能動的に行動している。
 そして、ヨハネのもとからやってきた弟子たちに「何を求めているのか」とイエス様は言われた。これこそ、弟子たちの気持ちを汲み取っている言葉はない。確かに、彼らは、何かを求めてやってきたのだ。
 詩編42編にはこうある。「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」。弟子たちの気持ちは、正に鹿のごとく、自分の奥底に潜んでいるもの、満たされない部分に気付いて、何かを求めていたのだ。
 聖書は、何かを求めている人とは、「渇き」に苦しむ人と表現している。そして、その渇きは「お前の神はどこにいる」という疑念に置き換えることが出来る。私からは神様が見えない、そのような絶望の中にいるのだ。
 続いて、物語ではナタナエルという人が登場する。この人はよく物事を知っており、また、疑い深い人だった。そのナタナエルが「どうして、わたしを知っておられるのですか」という言葉だった。
 ナタナエルの疑い深さは、失望から来ていたのだろう。神はなぜ、助けて下さらないのか、知らないふりをしておられるのか。祈りに答えてくださらないのか。そのわだかまりが、失念となり、疑念となった。
 しかし、彼は気付いた。神は私のことを知っておられる。あの日の悲しさも、あの時の喜びも心に留めておられる。理解されていると知ることで心は満たされたのだった。小さな私も、神の目に留まり、髪の毛一本まで数えておられる。

2016年 1月 10(日)  説教題:「先に行かれるイエス」  聖書:ヨハネによる福音書1章29~34節

 ヨハネによる福音書は、神の子であるイエス様が救い主であることを証することを目的としている。当時、預言者として注目を浴びていた洗礼者ヨハネと、イエス様との関係を描くのは難しかったのかもしれない。
 例えば、他の福音書には、洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けたという記録されているが、この福音書では明確にされていない。恐らくは、神の子が人間から洗礼を受けたことで、その身分が落とされるような印象を受けたのだろうか。
 民衆から慕われ、イエス様の宣教を導くパイオニアとして活躍したヨハネの働きを損ねることなく、イエス様に物語の中心を持っていくために、あえて、ヨハネが全く己を無にして身を引くかのごとく振舞ったことで、結果的に彼自身の評価も守られることになった。
 さて、洗礼者ヨハネとイエス様は伝承によれば従兄弟関係にあった。面識もあって兄弟のように育ったと想像する。その上で、弟分を立てることは決して簡単なものではなかっただろうが、ヨハネはどちらが先に生まれたかを気にしなかった。
 正確には気にしなかったのではなく、よく考えたのだ。従兄弟としては自分が先に生まれながらも、救い主として見る上で、神の救いの計画は既に立てられており、イエス様がこの世に来ることも世界の始まりから決まっていた。
 神が人を造られ、その人が罪を犯すようになったのは残念なことだが、神はその罪を赦すための計画も立てられていた。だからこそ、この世に生まれられたイエスは、この世よりも先に計画されて存在していたと考えたのだ。
 ヨハネはその人生の中でイエス様は自分よりも先におられたと知った。どのような出来事があっても、既に神様が先に行って必要なことを整えてくださるのだと、信じることができた。
 洗礼者ヨハネは悔い改めを強くすすめた。罪があることを厳しく説いた。そして、イエス・キリストは罪の赦しを説いた。ヨハネよりも、イエス様が先におられたということは、こうも考えられる。私たちが犯した罪さえ、悔い改めをする時、既に神の赦しが与えられていると。神の赦しが私たちの先にあるのだと。

2016年 1月 3(日)  説教題:「新しい年、新しい夢」  聖書:ヨエル書3章1~5節

 明けましておめでとうございます。新年を迎えました。私たちは年が代わることによって、これまでのことを古い年に委ねて、これからの計画を立てよう。まず、新年に神の言葉を聞きながら、この一年をイメージしよう。
 預言者ヨエルは言った。神は私たちに夢や幻によって語って下さる、と。睡眠中に見る夢というよりは、希望を持った将来像の夢。神は一人一人に、何をするべきか教えてくださる。
 ヨエルが生きた時代は、そう明るいものではなかった。イナゴによる飢饉で食べる物がなく、そのことを神に訴えていた。ヨエルは、食べられない状況を逆手に取り、それなら、断食をして神への祈りを高める集会を開いた。
 断食して祈るのは、余計なものを捨てることである。私たちが生きるのは、食べ物があるからではなく、神の言葉によることを、もう一度知るために。そうして、これまでの様々な思いを神に委ね、ただ、新しく生きることを求めた。
 年末年始のテレビは騒がしいものもあったが、その中で素晴らしい方を知った。北海道で電気屋を営む植松努氏はロケットの開発分野では有名らしい。そう簡単に、町の電気屋がロケットを作ることはできないことは想像できる。
 植松氏は祖父がアポロ11号の月面着陸を喜んでいた記憶から、ロケットに興味を持つ。小さな頃は本を読み漁ったが、中学に入って就職が見えてくると、その夢を諦めるように周りから言われるようになる。

 その後、会社を辞めたり、多額の借金をしたりと波乱万丈だったが、人生の転機になったのは、ボランティアで児童養護施設に行ったことだ。虐待を受けた子どもたちが、過去の心のキズを負いながらも、希望を持って生きていたからである。
 植松氏は、母の言葉を思い出す。「思うは招く」。どれほど可能性が低いことでも、思い続ければそれは現実となる。子どもたちから力をもらった氏は、不思議な出会いもあって、昔の夢、本当にやりたいことに辿り着いたのだ。
 「思うは招く」。神を信じる私たちにとって、神の言葉、聖書を1つ1つ思うことは、神様につながることであり、必ず、それが与えられる。今年、私たちが頼みとする言葉を、1つ1つ探そう。新しい夢にふさわしい、新しい言葉を。