説教要約(9月)

2015年 9月27日(日)  説教題「死者の声がひびく」  聖書:ルカによる福音書16章19~31節

 この世界に存在する持つ者と持たない者。聖書では「金持ちとラザロ」という題でこの問題を取り扱っている。ただ、気を付けたいのは、この世で苦労したことが神の国で報われるということではないことだ。
 ラザロは貧しく病気を持っていた。ラザロは金持ちの家の前で飢えに苦しみながら死んでいった。金持ちも贅沢に生きて死んだ。死後の世界で、ラザロは安らかな場所に行き、金持ちは炎の中で苦しむことになる。二人の間には大きな淵があって、どうしても金持ちはその苦しみから逃れることはできない。
 当時のユダヤ社会では、金や富を豊かに持つことは神の祝福を意味していた。その反対に、貧しいのは神から見放されているからだとも考えられていた。しかし、イエス様はその考えに誤りがあることを、この話で伝えようとしておられる。
 神様によって救われるとはどう生きることか。金持ちには名前がなかったが、この貧しい者にはラザロという名前が紹介されている。ラザロとは、ヘブライ語エルアザル「神は助け」という意味がある。
 つまり、ラザロは貧しかったが、神が助けて下さることを最後まで信じて生き抜いた。ただ、名前がそうだったのではなく、その生き方そのものがラザロという名にふさわしかった。だから、わざわざ名前が紹介されているのだ。
 旧約聖書では、神の祝福によって豊かになるが焦点になっていたが、長い歴史の中で、予期せぬ困難に遭い、または、不当に奪われて貧しくなる者が多くいた。しかし、イエス様はその貧しい者を見捨てることはなかった。
 貧しいことが悪いことのように語られる社会の中で、貧しいとは神にだけ信頼を置く生き方なのだと言う積極的な意味を見出したのである。ここにあって、信仰は豊かさよりは、貧しさの中で成長することが明らかになった。
 その一方で、金持ちの姿からは何が言えるか。家の前にいる存在に気付かず、いや、死後の世界でラザロのことを知っていたことからすると、金持ちは見ていながらも、見ていないふりをしていたのだろう。ラザロを死者のように扱い、その声を聞かなかった。ヨハネの手紙第一420節にはこうある。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。」

2015年 9月20日(日)  説教題:「小さいことを忠実に」  聖書:ルカによる福音書16章1~13節

 聖書では、「不正」という文字が何度も現れており、イエス様のたとえ話としては不適切なように感じられる方もおられるだろう。しかし、大切なのは、この管理人が、なぜ、褒められたのかということである。
 まず、この「不正」という言葉から考えたい。第一に、管理人は主人の財産を勝手に使ってしまったという点で不正であったことだ。この部分は、ルカによる福音書15章にある放蕩息子が父の財産を使い切る話から展開されている。
 次に、管理人が行ったこと。主人に借金のある人々を呼び寄せ、その借金を減額したことである。しかし、ただ、借金を減額したことが不正であるとは言えない。律法には同胞に利子を課してはいけないとなっているが、現実では利息によって商売をしている人たちがいたからだ。
 解釈の1つには、管理人が減額したのは利息分だったという考えがある。そうであれば、不正を行ったのは主人になるが、ここではその意味が明確には読み取れないため、現実社会における金に関わる不正と言えるだろう。
 そして、「不正」という言葉が何度も強調されるのは、律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々が使っていた言葉だった。金銭に関わる仕事、徴税人たちは特に、その言葉をもって非難されていた。
 実の所は非難しているこの人たちもお金が大好きでありながら、自らの清らかさを証明する如く、徴税人たちをひどく困らせていた。だからこそ、イエス様は何が問題かを語られたのだろう。
 富やお金を持つことが不正であるという一方的な考えに対して、富やお金を持つ人間が不正を行うという事実を明確にしている。そして、皮肉な言い方で反論しているが、その「不正」な金銭を持って大切な友を得ることができ、それは神に褒められる良いことであると言う。
 友達をつくる。それは生きる目的である。十字架は友を得るためにこの地上に立てられた。我が身のために金銭の計算をする現実の前で、イエス様は、その身を犠牲にしたことを言われもせず、ただ、友のために何を差し出せるかを見ておられる。

2015年 9月13日(日)  説教題:「帰りを待つ人」  聖書:ルカによる福音書15章11~32節

 ある人に二人の息子がいた。弟は父に向かって財産から自分の取り分を受け取ると出ていき、好き放題に生きるようになる。そこで財産を使い果たしてしまう。金の切れ目が縁の切れ目と言わんばかりに周りからも見捨てられる。丁度、その頃に飢饉があり、弟は豚の世話をしながら、ふと、父の家のことを思い出す。
 聖書の民、ユダヤ人は汚れた動物として豚を食べない習慣があったため、弟は外国に行ったようである。または、違う価値観の世界で生きたということかもしれない。とにかく、そこで、自分の居場所がないことに気付くのだ。
 弟は、自分の罪を悔いて父の家へと帰る。しかし、父は全くと言っていいほど、弟のことを怒っていなかった。自分の息子が帰ってきたことを喜んで迎えるのだ。この弟の姿に、在りし日の自分を重ね合わせ、神への信仰を得た人も多いだろう。
 しかし、この物語は、弟だけで終わることはなく、続いて、兄が登場する。兄は、父のそばにいて忠実に働いていたが、好き放題に暮らしてきた弟が、何の叱責もなくて家に帰ってきたことが腹立たしいようだ。
 この兄の存在は実に必要である。ルカによる福音書15章は全体として、求道者が信仰を得る姿を、神さまのもとに帰ってくるというテーマで描かれている。99匹をそのままにして、1匹を探し回る羊飼いが良しとされている。
 一人一人を大切にしながらも、全体としての考えをまとめることは難しい。福音書の記者は弟と兄を引き合いに出しながら、どちらをも愛しておられる神さまの姿を描き、何とか、1つの食卓で交わりを持てないか、苦労しているように思える。
 画家のレンブラントが『放蕩息子の帰還』と題して絵を描いている。年老いた父が立ち上がって迎え、膝をついた弟がその父の膝に顔をうずめている。その絵を描いたのは、レンブラントがこの世を去る一年前だったと言われている。
 私たちは、自分の生き方を振り返って、弟のように、大きな罪を感じる場合もあれば、兄のように、父なる神に忠実に従ってきたと感じる場合もある。どちらの生き方も、神さまによって受け入れられている。死を目前にレンブラントは神への帰還を想起した。そのように、私たちは、神さまのもとへ帰る日々を生きている。

2015年 9月 6日(日)  説教題:「人生のスパイス」  聖書:ルカによる福音書14章25~35節 

 日曜日は誰にとっても週に一回しかないが、その時間をどのように使うかをクリスチャンほど悩みながら過ごしている人はいないだろう。家族との時間、友人との約束、準備しなければならない用事、それらと礼拝を天秤にかけているのだから。
 聖書は常にやさしい言葉であふれているとは限らない。今日の箇所のように戸惑い、何を意味するのか困ってしまうところも多くある。家族を『憎む』という表現を見て私たちの心は騒いでいる。
 しかし、何も慌てなくてよい。ここで憎むと訳されているのはギリシャ語のミセオーだが、ギリシャ語では憎む、心で憎しみを感じるという意味であることは間違いない。しかし、旧約聖書で使われているヘブライ語に対応する言葉、サーネーアに置き換えると意味が複雑になってくる。
 ヘブライ語サーネーアには、憎むという意味以外に、捨てる、断念する、より少なく愛する、などの意味がある。この中で、より少なく愛するという意味を考えれば、神よりも家族を少なく愛するということになる。
 そうなれば、家族を憎むのではなく、何よりも神を愛することを忘れてはならないという言葉に変わってくるのだ。日本語の聖書ではくみ取れないが、家族を憎むとは、私たちが大切にする神さまを中心に置くことを言っているのだ。
 私たちの周りにはなぜ、日曜日に礼拝に行くのかと尋ねられることがあるだろう。出来れば問答になることを避けたいと思いつつも、それが機会になるかもしれない。相手を尊敬しつつ、誠実に私たちが信じていることを説明するなら、私たちが大切にしている礼拝と神への信頼を理解してくれるに違いない。
 そのように、信じることは、家族とのせめぎあい、自分の時間とのせめぎあいにあるが、それを人生のスパイスに変えて、より互いを理解する機会にもすることができるのではないだろうか。神への愛が、その他への憎しみではなく、より広く、包み込む愛になるよう成長していきたい。