説教要約(7月)

2015年 7月 26(日)  説教題:「良心を求めて」  聖書:ペテロの手紙第一3章13~22節

 聖書は人間の罪と悪に向き合っている。世界の始まりを語る創世記は、人間が神の命令に背いて罪を犯したので、楽園エデンを追放され、労働と出産を罰として与えられたという。
 ノアの方舟は、その人間の悪を消し去るため、悪人のみを滅ぼそうとした。世界は一度滅びたが、生き残ったノアの家族から悪が生まれた。つまり、善人と悪人がいるのではなく、人間の中に善も悪も必ずあると言うことが分かったのだ。
 その人間の中にある悪をとどめるために、モーセは神から律法を受け、それを守ることによって罪を犯さずに神の命令に従うことができようになった。その後、祭儀化による罪悪感の薄れや、神殿における堕落も問題になってくる。
 律法による支配は、何が悪なのかを明確にする一方、因果応報的な考えが生まれ、悪を思って罪を犯したから罰があると考えるようになる。一方で、その考えに固執するあまりに、災難に遭った者を責めるようになってくる。

 ヨブ記では、善人のヨブが災難に遭っただけでなく、その原因はヨブが悪いからだと言う友人たちの意見が書かれている。この書は、善人であっても災難に遭うことは事実であり、災難だけを見て人を悪だと判断する考えを否定している。
 正しい者の苦しみはヨブ記に始まり、イザヤ書で更に展開され、苦しむ僕と言うテーマで書かれている。そこでは、正しい者が苦しむことによって、多くの罪人が救われるのだと言うのだ。
 そして、その正しい者の苦しみは福音書に入って十字架へとつながる。罪なき神の子が苦しむことによって、全世界が救われると言う最終的な結論が福音として人類に伝えられたのだ。
 ペトロの手紙は、苦しみの中でも良心を捨てず、かえって、善を行うように語る。それは、正しさは苦しみの中でこそ、試され、鍛えられ、貫かれるから。


2015年 7月 19(日)  説教題:「神さまのまなざし」  聖書:フィリピの信徒への手紙4章1~9節

 「主において常に喜びなさい」。感謝の気持ちが足りない私たちにとって、1つ1つの出来事を振り返らせる言葉です。そして、驚くのは、この言葉を書いたパウロが、この時に牢屋に入れられていたからです。
 パウロは何か犯罪をしたのではなく、当時、キリスト教が迫害されていたため、その布教活動をしていたところを逮捕されたのでした。ですから、このような状況で「喜びなさい」と書くことは難しかったと想像します。
 それに続いて、「思い煩うのはやめなさい」と書かれています。恐らく、パウロ自身がこれから自分の身がどうなるのか心配していたでしょうが、その彼からこの言葉を聞いた人たちは、彼の状況を知って重く受け止めたでしょう。
 パウロはこの言葉を福音書のイエスから受け取ったと思います。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ627節)
 この時、パウロは処罰されることを恐れ、場合によっては死に至ることも頭によぎっていたと思います。様々なことを思い悩んだ末に、人間の力ではどうすることも出来ないことを理解し、神さまにゆだねることになったのです。
 私たちも同じです。死を喜ぶことなど、できないことだと思います。大切な人に会えなくなることは辛いことです。しかし、聖書は喜んでいなさいと教えます。それは悟りの境地だと思うかもしれません。
 人の死を前に神さまは何をされているのでしょうか。もしや、その死をご覧になっていないことはありません。では、なぜ、助けてくださらないのか、そう疑いを持ったりもします。
 しかし、神さまのまなざしは私たちに注がれています。創造主であるとは、生み出し、育て、いやすだけでなく、その最後をも見届けることこそ、創造主のお仕事なのだと思います。パウロは、自分がどうなっても、神さまのまなざしがあることを知って、心が穏やかになったのでしょう。

2015年 7月 12(日)  説教題:「蒔いたものを、刈り取る」  聖書:ガラテアの信徒への手紙6章1~10節

 人は蒔いたものを、刈り取るようになる。その言葉を聞くと、良いことをすれば良いことが帰って来るが、悪いことをすれば、それもまた、帰ってくると言うような因果応報を語っているように思える。
 ガラテヤの教会にはいくつかの問題があったようだ。聖書を読み進めていくと、教会に来る人はそれぞれが自己中心的であったとある。また、他者の失敗や罪を赦すことが出来なかったとも書いてある。
 そのようなガラテヤ教会は想像するに、かなり人間関係がギスギスしていたのだろう。それを聞いたパウロは心配になって手紙を書いたことはうなずける。このままでは教会がバラバラになってしまうだろうから。
 パウロは手紙において、他者を見て気になる失敗や罪を、「重荷」だと考えるようにすすめている。そして、互いに重荷を担い合うことが教会の働きであることを教えている。
 福音書でもイエスさまが言っている。「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:4)
 教会の働きはそれまでとは変わった。聖と俗を分けて罪を見つけてそれを裁く時代から、罪を重荷として担っていく、赦しの時代へと変わった、それこそが福音であると聖書は語っている。
 自分の蒔いたものを、刈り取る。それは、自分の人生に中に神さまが蒔いてくださった恵みに気付き、その赦しと救いを刈り取ることではないだろうか。キリストの愛、一粒の種が私たちの中で生きて力となるのだから。

2015年 7月 5(日)  説教題:「長い長い話」  聖書:使徒言行録20章7~12節

 聖書の中には、時々だが、どのように受け取っていいのか悩んでしまう物語が残されている。それを読解力の無さと言われればその通りなのだが、今日の物語では、パウロの長い話を聞いて眠り込んだ青年が3階から落ちて命を失うのだ。
 青年エウティコの名が出てくるのはここだけであり、彼にとっては一生の恥にもなるのだが、彼の姿に同情してしまう余地もあるだろう。日曜日の朝、日々の疲れを背負いながら、説教に向かうことの難しさを皆が体験するからだ。
 私たちは、世界宣教の先頭に立って、地中海に面する地方を伝道したパウロについて、ある意味、理解不足なのかもしれない。コリント第Ⅱ1010節にはこうある。「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです。」
 これは当時のパウロに対する評価で、一部の人たちからは長くてつまらないと言う厳しい意見を受けていたようだ。そのような記録を知ると、説教者として少し安心してしまうのは、私だけだろうか。
 そんなことはさておき、私は説教を作る上でこのように教わった。話をする時には、「難しいことを簡単に、簡単なことを面白く、面白いことを深く」話すように言われた。教えは有意義だが、実際は大変難しい。
 パウロの良い所は、そのような意見に左右されないところだった。彼は、この青年が落ちて死んだ後も、奇跡によって生き返らせ、しかも、更に長く話を続けたからだ。それほどに、語りたい福音の喜びが彼を動かしていた。
 そのような物語を受けて思うのは、御言葉の受け手として、青年エウティコのように疲れ果てて眠り込んでいないだろうか、という疑問である。青年は色々なことに活発であるがゆえに疲れも多い世代。私たちも聖書以外に心を奪われることが多い時代だからこそ、御言葉に今、向かっている時を大切にしたい。