説教要約(6月)

2015年 6月 28(日)  説教題:「汚名『挽回』」  聖書:使徒言行録11章4〜18節

 日本語は難しいと言われる。使っている本人たちはそう思わないかもしれないが、意味が似ている言葉は多い。「名誉挽回」と「汚名返上」もそうだ。時々、勘違いからか、「名誉返上」や「汚名挽回」と言われることもある。
 汚名を挽回しては元も子もないように思うが、汚れと言うイメージはどこから来るのだろうか。旧約聖書のみを正典とするユダヤ教では厳しい食物規定がある。清い食べ物、汚れた食べ物を分けて生活している。
 宗教は聖と俗の境界線を明らかにするものであるが、その境界があまりに厳密になりすぎると生き辛くなるのかもしれない。確かに、ユダヤ教の中で厳しい規律に苦しみ、解放されたいと思う人がイエスさまのところにやってきた。
 きっちりを超えて、ぎっちりと言うほど厳しく求めるユダヤ教の世界に対してイエスさまはこう言われた。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」と。
 物ばかりを見ていた人たちに対して、イエスさまは人を良く見ておられた。その通り、汚れと言うものは人から出る。私たちは気付いていないかもしれないが、実に、自分と違う存在を汚れや悪と言って避けようとする部分はあるのだ。
 夢の中で、汚れた動物を食べるように進められたのは弟子のペトロだった。彼も古いユダヤ教の考えにはまり込んでいた。しかし、教会とは、境界線を超えて、違いを豊かさにしていくものであることを神さまから教えられた。
 大昔にあったと言うノアの方舟を思い出してほしい。世界を覆う洪水が起こった時に、ノアが作った方舟に入ったのは清い動物だけでなく、清くない、汚れた動物も入って世界の危機から救われたのだ。
 教会は方舟だと言える。それは大きさのことではなく、豊かさのことであり、どれほど違いを受け入れていくかを神さまに求められているのかもしれない。

 2015年 6月 21(日)  説教題:「あの影を追いかけて」   聖書:使徒言行録8章26〜40節

 使徒フィリポは、エルサレム教会の世話役として選ばれた人であり、同じく世話役をしていたステファノは、キリストについて証言したことにより逮捕され、初めての殉教者としてこの世を去った。
 使徒ステファノの死はエルサレムにいたキリスト者に動揺を与えた。激しくなる迫害を避けて外地に逃げようとした。フィリポもガザの町に行くことにし、なるべく人目を避けようと「寂しい道」を選んだようだ。
 キリストを語ることを恐れていたフィリポに、神の霊はエチオピアの高官と会う機会を与える。この高官は聖書を読んでいたが、どう理解するべきか、その指導を求めていた。
 エチオピアの高官と聞くだけで権力と地位を約束され、何も不満のない生活を想像するだろう。しかし、彼にも問題はあった。当時、高官として王宮で働く男性は、去勢することが強制されていたと言われる。
 王室の女性たちを守るためであったが、高官の体の傷は深く、その心の傷は癒されないものだった。彼は聖書を読み、イザヤ書に登場する弱く、傷付いた一人の僕の姿を見て、自分と重ね合わせていた。
 フィリポによって聖書の解説を受け、キリストが苦しんで十字架にかかったのは、私たちの罪を代わりに負ってくださったことを知り、高官は自らの十字架をキリストに委ねるように、神を信じて洗礼を受けることを決意する。
 この地は荒涼とした荒野。乾いた土と枯れた草木は多くあっても、水を見つけることはほとんどない。それは、高官の内面も同じく、満たされない思いの中でただ、癒されることを求めていたからこそ、彼は小さな水を見つけた。
 洗礼はゴールではない。洗礼はスタートだとも言われる。何よりも、洗礼はキリストに癒された心が求める満たされた時であり、1つの新しい変化なのかもしれない。自分の傷を知り、それを神さまの前に見せる時なのかもしれない。

★ 2015年 6月 14(日)  説教題:「いやしと証し」   聖書:使徒言行録4章5〜12節

 「危機」と言う言葉は意味深い。「危険」と「機会」は隣り合わせであることを教えているからだ。ピンチはチャンス、という言葉があるが、キリスト教が広がって行く中で、ピンチの時に神の愛を語るチャンスが与えられた歴史がある。
 ペトロとヨハネの弟子たちは、今、議会の場で取り調べを受けている。現在で言う所の裁判だ。土地の有力者、権力者や法律の専門家の前で自分の信じていることについて語らなければならなかった。
 福音書を思い出すと、裁判が行われている大祭司の屋敷は、イエスさまも十字架の前に行った場所である。その時、ペトロは一度逃げ出して、後からイエスさまを心配してそっと様子を見に行った。
 その時には、イエスの弟子であることを恐れて、イエスさまを知らないと言い放ったペトロが、今や、多くの人の前でイエスさまが救い主であることを立派に語っている。復活を体験したペトロは変わったのだ。
 広島南部教会のことだが、興味深いことに「宇宙ミーティング」なるものを実施している。濱田牧師言うには、数人が集まって、言いっぱなし、聞きっぱなしのお話合いをして、小宇宙のように未知な部分の多い自分をより深く知ると言う。
 濱田先生は、問題解決が求められる社会の中で、教会は問題共有することで見方を変えられ、気持ちも軽くなると言っている。困っている人は答えを求めているのではなく、聞いてもらうことで自分を整えることができるのだ。
 ペトロもまた、弟子たちとの集まりの中で、語り合っていやされたのだろう。イエスさまを知らないと言った自分もまた、否定できない自分なのだと。そして、自分と対話する中で周りにも語る力を手に入れ、裁判の場でもそれを発揮した。
 裁判のきっかけは、ペトロが足の不自由な人をいやしたことで、それはどのような神の力によるのかと、目くじらを立てて追及する人々によって始まったのだが、正に、このいやされた人の姿はペトロに重なる。彼は、教会の中で立ち直ったのだ。

★ 2015年 6月 7(日)  説教題:「全体は一人に、一人は全体に」   聖書:使徒言行録2章37〜47節

 使徒言行録は、どのように教会が生まれてきたか、その源流を語っている。イエスさまの死と復活を体験した弟子たちは、悔い改めによる罪の赦しと聖霊による支えを信じて集い、祈りと分かち合いの日々を送っていた。
 教会には2つの食卓がある。イエス・キリストとの約束による聖なる食卓、聖餐は教会を神さまの前に導く恵みの場である。そして、もう1つは、交わりの食卓、神を信じる者達が互いに分かち合う愛餐の食事である。
 当時、教会に集う人々は持ち物を共有しようと、それぞれが自主的にささげ、それを皆で分け合う生活を営んでいた。人間の罪による争いによって起こった分裂から、和解と協働の生活が始まったのだ。
 しかし、共有することは簡単なことではない。同じく使徒言行録の5章には、アナニアとサフィラが起こした事件が書かれている。全てをささげようと公言したが、財産が惜しくなって金額をごまかしてしまったのだ。
 教会は多くある新興宗教のように多額の献金を要求するものではない。自分に合ったささげ方があり、何よりも神さまは小さなものを喜んで下さるからだ。間違いを起こした二人は、どうやら周りの目に関心があったようだ。
 いずれにせよ、教会が生まれたのは、個別に信仰をするよりも、互いに交流して分かち合うことに意味があり、神さまの喜びもそこにある。互いに助け合い、教会は小さな一人を大切にし、一人は教会のために奉仕をするものである。
 今では交わりの食卓を持っている教会は少ないかもしれないが、礼拝も交わりの時である。同じ日の同じ時間に同じ場所に集まる。そこに共同体としての一致が生まれる。そして、礼拝の時は神さまと一人一人がつながる場でもある。
 私たちは、神さまのために奉仕をささげ、神さまは、私たち一人一人を覚えて見守ってくださっている。教会はキリストの体であり、私たちはその一部分。バラバラに存在するのでなく、全体は一人を、一人は全体を愛する共同体である。