説教要約(5月)

★ 2015年 5月 31(日)  説教題:「幼子のようなものに」   聖書:ルカによる福音書10章17~24節

 今日は三位一体主日を迎えている。父なる神、子なるキリスト、聖霊として礼拝している神は1つであると言う信仰告白である。3つであって、1つであると言われているような矛盾を感じるが、何よりもキリスト教は3つの関係、調和を愛する神さまを信じていることを表している。
 
 今日の聖書では72人の弟子たちが町や村に行ってイエスさまの代わりに神の言葉を伝えたことが報告されている。弟子たちはイエスさまの名前を使うとどのような病気も悪い霊も追い出すことが出来たと喜んでいる。

 教会では「御名」という言葉をよく使う。日常ではあまり耳にしないが、私たちが褒められたり、喜ばれたりする時には、自分ではなく神さまのおかげです、と御名にお返しする。私たちの名前より、キリストの名を広げたいからだ。
 そして、そのようにキリストの御名を広げるように努める一人一人の名前は、しっかりと天の神さまに覚えられていると聖書は言う。私たちは、何よりも、神さまに覚えられていると言うことで満足できる。
 さて、この遣わされた72人の弟子たちはどのような人たちだったのか。報告を聞いたイエスさまは神さまにこう祈っている。知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のようなものに、力を与えて下さったと。
 神さまの考え方は人間とは違う。私たちは能力ある人に更に力を与えれば、もっと大きな働きが出来ると考える。しかし、神さまはこう考えられる。弱い者、小さい者、幼子のようなものが活躍する時、その背後に見えない存在がいることを人間は感じるのだと。
 私たちは神さまを伝える存在として、優秀である必要はない。ただ、神さまの助けを信じる小さいけれど一心の信仰を持ちながら神さまに向かう一人の幼子のようであれば良い。そこに神さまの力が与えられ、私たちの力以上に大きな働きを成すことができる。私たちはそれを御名によって行ったと証しするのだ。

★ 2015年 5月 24(日)  説教題:「わが息よ、祈りなれ」     聖書:ルカによる福音書11章1~13節
 

 今日は聖霊降臨日であり、祈っていた弟子たちに聖霊の力が与えられた。それは風のような見えない力であり、私たちの背中を押しだして勇気を与える神さまからの助けであった。今もなお、神さまを信じる者に与えられている。
 聖霊は風にたとえられることがある。私たちはカーテンがゆらゆらと動いていると風が吹いていることを知っている。そのように、人間も動いている時に、実は見えない神さまの力によって働いていることを、改めて教えている。
 旧約聖書のヘブライ語では、「風」という単語は「息」とも読める。創世記のはじめ、土の塵から作られた人間に神さまが命の息を吹きいれられた。私たちが命を持ち、息をして動くことが出来るのは、神さまのおかげなのだ。
 しかし、私たちはその命の息をどのように使っているだろうか。自分のためだけに、神さまのことは忘れているのかもしれない。命の息を吸いながら、吐き出す時には、悪い思いや自分勝手な言葉を出しているのかもしれない。
 息には吸う時と吐く時がある。創世記に与えられた命の息は吸う時であり、その息を吐き出す時にも、神さまに向かっているはずである。つまり、吐く息とは祈りのことなのだ
 でも、私たちは聖書の弟子たちのようにどのように祈っていいか、分からない時がある。パウロはそれを「うめき」と表現しているが、確かに、信じたい思いの中で葛藤があり、祈りの言葉にならない時がある。
 ある病気の人が主の祈りを愛していた。そして、病気が進行して祈りの言葉すら出せない体になった。それでもなお、あえぎ苦しむわが息が、神さまを責めるのではなく、神さまへの信頼の祈りなれと、願い続けて天へと帰った。
 言葉にならないうめきも、どのような苦しみのあえぎも、全て聖霊に清められて、神さまをたたえる賛美になり、今は疑いの中にあっても、私から出るすべての息が祈りになって聖霊が神さまへと届けて下さると信じたい。

★ 2015年 5月 17日(日)  説教題:「贈る言葉に込めて」     聖書:マタイによる福音書28章16~20節

 今日は昇天日である。キリストが十字架で死んだ後、三日目に復活して弟子たちに会われた。だが、いつまでも地上におられるわけではなく、天に昇られて天から私たちを見守り続けているのだ。
 まず、注目して頂きたいのは「十一人」と言う言葉。12弟子からユダが裏切ってしまったため、人数が減っている。「11」とは一人足りないと言うことと同時に、人間の集団が常に不完全であることを意味している。
 私たちの集団は常に不完全であるからこそ、神さまに祈って進まなければならない。そして、頼りにしているイエスさまもいつも一緒にいるわけではない。だからこそ、何に頼って生きているのかを忘れてはならない。
 昇天日はイエスさまが天に帰られる日であり、また、弟子たちとの別れの場面でもある。これからは弟子たちだけで神の言葉を伝える働きを続けなければならない。ガリラヤと言うスタート地点で弟子たちは新しい門出を迎える。
 今や、ガリラヤは新しいスタートの場所である。以前は、イエスさまの後に従ってついて行った弟子たちだが、今度は自分一人で進まなければならない。だが、イエスさまとの体験を持ち、そして、何よりも天からの助けを祈り求めることができる。
 天に帰られるイエスさまも弟子たちのことが心配だったであろう。「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言う言葉は、弟子たちに贈る言葉として語れている。
 この言葉は礼拝に参加する私たちにも与えられている。礼拝の最後に祝福の祈りがあり、他の教会では「派遣」と言う表現も使われているが、私たちの生きる現場である家庭、仕事場、学校へと祝福の内に送り出されている。
 私たちは独りであることを感じて不安になる時がある。けれども、その私のそばにいつもイエスさまがいて、「ほら、元気を出して、一緒に歩こう」と呼びかけてくださる。どこまでも一緒にいると言う励ましがある。

★ 2015年 5月 10日(日)  説教題:「天の下に生きて」  聖書:ルカによる福音書7章1~10節


 「優」という字が人を憂うと書くように、優しい人は常に誰かのことを心にかけているのであり、今日、紹介する百人隊長も自分の部下のために心配して人を遣わす人格者だった。
 百人隊長は100人の部下に命令して任務に遂行する。たった1人のために集団行動が崩れることがあってはいけない。また、隊長の中には部下を部品のように思い、部下を交換可能な感覚を持った者もいたと想像できる。
 しかし、この百人隊長は違った。一人のために信頼できる長老を遣わせているのだ。部下一人の健康のためにわざわざ外国の医者にお願いする人が今の時代にいるだろうか。
 そして、もう1つ大切なのは、当時、イエスさまはユダヤ人であり、百人隊長らはローマ人だったこと。ローマ帝国の支配が広がる中でユダヤ人たちもその配下に置かれて統治されていた。恐らく、差別や偏見もあっただろうが、このローマの百人隊長は礼儀を尽くしてイエスさまにお願いしていた。
 1つ1つの行動を裏付ける発言がある。百人隊長の伝言には自分が「権威の下に」いることを述べている。権威の「上に」ではなく、「下に」いる感覚こそ、これまでの行動が謙遜の気持ちから出たものであることが分かる。
 私たちの社会では縦の関係を重視して、時に役職を忘れて人を上に見たり、下に見たりすることがある。福沢諭吉の遺した「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉がある。これは、アメリカ独立宣言から引用されたと言われており、キリスト教信仰がその根幹にある。
 私たちは誰かの上に立っているのではなく、どこにいても、天の下、神さまの下で生きていると言う気持ちを忘れてはならない。選ばれたり、褒められたり、立てられたする時ほど、天の下に生きているという謙遜、小さな自分と言う基本に戻るため、神さまの前に歩むことをいつも思い出したい。


★ 2015年 5月 3日(日)  説教題:「キリ友」       聖書:ヨハネによる福音書15章12~17節

 「○○友」と言う表現がよく使われることがある。子どもを持つお母さんたちがあるまると「ママ友」になり、終活と称してお墓探しをするご高齢の方々が集まると「墓友」になる。最近は、焼き肉を食べに行く時に「牛友」と言うらしい。

 教会にも色々な人が集まる。つまりは、キリスト教によってつながる「キリ友」なるものが生まれる。聖書は、教会をぶどうの木にたとえ、キリストへの信仰を根っこに一人一人が分かれ出た枝であり、つながっていることを教えている。

 そして、その教会と言うぶどうの木の中をかけめぐる栄養こそが愛であり、互いに愛し合うことが大切な掟なのだと言われている。恐らく、福音書が書かれた時代、教会とは何か、教会の掟とは何かと言うことが問題になったのだろう。
 私たちは掟と聞くと、「してはいけない」「するべき」と言う言葉を思い出すかもしれない。生活の中には驚くほどの掟があり、教会もまた、その掟によって自分自身の自由を奪ってしまう危険がある。
 その数々の掟の中で最も大切なものは何か。行き着いた答えが愛だった。それも、夫婦や家族、親戚の関係ではない、教会で出会った関係での愛であり、それは「友」になることだった。
 友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。」この聖書の言葉に胸を打たれる。それは、まず、自分にはそのようなことは出来ないと思うからであり、もう1つは、もし、そのような友がいれば、どれほどうれしいかと、思うからだろう。
 十字架は、この愛の表現だった。自分の命を捨てて、私たちに生き方を教えようとキリストは行動した。神の愛を知り、小さな自分が価値あるものであって、私の隣に生きる人もまた、価値ある存在であることに気付くためである。
 最後に、忘れてはいけないことは「互いに」愛し合うこと。一方が親切にしていても、もう一方はそのことで引け目を感じるかもしれない。助け、助けられ、自分の人生の中に誰かの存在を認め、支え合う友になっていきたい。

日本キリスト教団湖山教会