説教要約(4月)

 ★ 2015年 4月 26日(日) 説教題:「マンナ“命のパン”」  聖書:ヨハネによる福音書6章34~40節

 「わたしは命のパンである」、その言葉の裏には何があるのか。キリスト教は多くある宗教の中でも食事を大切にする宗教だ。有名なのは、儀式においてパンとぶどう酒を食べることがあるが、それ以外にも信徒同士の食事を大切にいている。
 その昔、キリスト教が小さな集団で礼拝をしている時代から、信徒たちは集まると食事をして交流していた。貧しい中でも互いに食物を持ち寄り、それを礼拝で捧げた後にみんなで食べていた。まだ、政府もない社会の中で食物を分配する機能が教会にあったのだ。
 旧約聖書にまでさかのぼると、聖書の神を信じる人々がお腹を空かせている時に、不思議にも天からパンのような食べ物が降ってきて、飢餓を乗り越えたと言う言い伝えがある。
 それはマンナと言って聖書においては神さまの助けを思い出させる食物だが、マンナが天から降ってきたことと、キリストが天の国から来て人々に生きる力となったことが重ねられて、「わたしは命のパンである」と言われている。
 命のパンになるということは、食べられる側になるということだ。そして、常に食べる側に立ち、食物連鎖の最後にいる人間が、キリストと同じように食べる側から食べられる側に変われるか、と疑問が投げられている。
 子どもたちに人気のアンパンマンと言うアニメがある。お腹をすかせた弱者に自分の顔であるアンパンの一部を与えるヒーローだ。時に自分の力が弱くなったとしても、弱者を助けることを第一にする、その姿に魅力がある。
 アンパンマンの生みの親、やなせたかしさんは戦争中に空腹感に苦しみ、また、敗戦によって正義がひっくり返る体験をした。その中でも、空腹の人を助けることだけは、変わらない正義だと言う事をアニメの中で語っている。
 命のパンとなって、与える側の人間になれるだろうか。食べる側から食べられる側へ、求める側から与える側に考え方を変えることが、キリストがその身をもって示した復活であり、生まれ変わるということだと学んだ。

 ★ 2015年 4月 19日(日)  説教題:「焼き魚と決意」 聖書:ルカによる福音書24章36~43節

 人生の中で最も長い時間を費やすものの1つに職業がある。職業観と言えば固いかもしれないが、「プロ」としての意識を持つ人たちは、求められたもの以上の物や価値を生み出すことを追求する。

 復活されたイエスさまが弟子たちに出会った様子を聖書は書いている。その初めは「空っぽの墓」であり、天使から復活を告げられ、その後、一人の弟子の目の前に現われることもあれば、今日のように大勢の弟子に現れることもあった。
 弟子たちの多くは復活など幻のようだと考えていたようだ。だから、今日の物語ではイエスさまが何か食べるものを求めてその場にあった焼き魚を食べたと言う。復活が幻覚ではなく、現実世界に起こっている表現として。
 この「焼き魚」に焦点を合わせながら、復活と言う出来事を考えてみたい。魚はイエスと弟子たちにとって関係の深いものだった。なぜなら、イエスさまに初めて呼びかけられた弟子たちは漁師だったからだ。
 漁師は魚を取るだけの仕事だが、それを焼き魚にしてイエスさまに出したと言う事は、求められたもの以上の働きを、復活のイエスさまに出会うことで自分から進んで実行したのではないだろうか。
 「天職」と言う言葉がある。その昔、ヨーロッパでは様々な職業の中でも神に仕える司祭や教会関係の職業は尊ばれていたが、宗教改革以降、職業観にも変化が起こった。どのような職業であれ、神に与えられた仕事として一生懸命に打ち込み、職業を通して神の素晴らしさを伝えようと言う動きが活発になった。
 私の思うに、弟子たちが焼き魚を渡したと言うことは、ただ、そこに焼き魚があったと言うことではなく、職業を通して復活のイエスを伝えていたことを表現しているように思う。形としては見えないが、まるで、そこにイエスさまがいるかのように、生きて働き、人が喜ぶものを作り出したのだと。
 今はいないあの人が、まるでそこにいるかのように生きる。それが復活を体験した弟子たちの生き方であった。私たちも天職がある。生き方が変わって、働き方も変わって、求められる以上のもの、神に喜ばれるものを与えていきたい。

★ 2015年 4月 12日(日) 説教題:「立ち止まり、また歩く」聖書:ルカによる福音書24章13~35節

 復活した後の出来事として、聖書はキリストに出会った物語を描いている。ある弟子たちは自分たちの家に帰る道中に、まるで、イエスさまが自分たちと一緒に歩いてくださっているような体験をした。
 弟子たちの自宅に向かう途中で出会った一人の旅人と話すことになる。イエスさまが十字架で死んだこと、その後に復活したと言う噂、その出来事全体が聖書に預言されていたこと。それら起こった1つ1つを整理して考えていた。
 弟子たちが、この一人の旅人が実はイエスさまだと気付いたのは、一緒に食事の席に着き、パンを裂いた時だった。弟子たちはそのパンを見て、イエスさまと共に過ごした最後の晩餐を思い出したのだ。
 16世紀にイタリアで活躍した画家カラバッジョはその食事の席を描いた。彼の手法は光と闇を際立たせるもので、復活したイエスさまだと弟子たちが気付いた瞬間を、真っ暗な背景の中で人物に光を当てて描いている。
 画家カラバッジョはその他の画家とは違ってお金には困らなかったと言われている。生前から作品は売れ、そのお金で酒を飲んだり、賭博をしたりとかなりイメージとは違う生活をしていたようだ。
 余りに乱暴な性格だったために友人は少なかったようで、ある時、乱闘の末に一人の青年を殺害してしまう。彼は死刑を恐れてローマの町を離れて暮らすことになる。しかし、その後、罪の赦しを求めてローマに向かうが、途中で病死してその最後を閉じることになったと言う。
 私には、このカラバッジョとエマオの自宅に向かった弟子たちが重なって見える。失望の中で逃げるように生きてきたが、その人生の中に神さまが共にいて下さることを知り、新しい生き方を求めて歩き出したのではないか。
 カラバッジョの特徴である背景の暗闇は、まるで罪のようだ。しかし、その真っ暗な自分に目を向けて生きるように語りかえる神さまがおられるのだ。そして、逃げてきた道を、今度は勇気を持って歩き出す力を与えて下さると信じて、カラバッジョのように赦しと信頼の道を歩き出したい。

 ★ 2015年 4月 5日(日) 説教題:「再開の約束」    聖書:ルカによる福音書24章1~12節


 キリストの復活、イースターを迎えました。おめでとうございます。最近では、ディズニーランドでもイースターをするそうで、日常でも耳慣れた言葉になってきたようです。
 イースターと言う言葉が知られる一方で、その中身が何なのかを本当の意味で知る人は少ないでしょう。かわいいデザインの卵やうさぎのイメージだけが先行して、誤解されることも多いと思われます。
 イースター、復活の始まりは空っぽの墓でした。十字架の死の後、イエスを慕ってきた女性たちが墓に向かったところ、墓にはイエスの遺体はなく、ただ、天使が現れて復活されたと言うメッセージを聞きました。
  4つの福音書が口をそろえて報告する「空っぽの墓」。それは遺体が見つからないと言うだけではありません。復活を信じる私たちも、様々な先入観や考え方を捨てて「からっぽ」にならなければ新しい希望を信じることができないからです。
 復活するなんて信じられない。それは、キリスト教を信じておられない人だけの意見ではありません。イエスの弟子たちも「たわ言」だとはっきり言っています。つまり、最初は誰も信じない小さな出来事でした。
 しかし、キリストの復活から2015年目の今、世界中を見渡すと何とその復活を信じて希望している人たちが多いことでしょう。つまり、復活とは、愛していた人、大切にしていた人と再開の約束を願っている人が多いことでもあります。
 復活とはキリストから始まり、全ての信じる人々に起こるのです。そう信じたいと言う人が世界にはたくさんいるのです。死んで後に行く世界がある人とない人では、その生き方までも変わります。

 いつか会えると言う希望を十字架に向けながら、再会した時に色々な報告が出来るよう、イースターから始まる今週も精一杯生きて、命あることを神さまに感謝します。