説教要約(2月)


 2015年 2月22日(日) 説教題:「そらいろのたね」 聖書:ルカによる福音書13章18~21節

 イエスのたとえ話には、それを聞く人々の日常生活から題材をとったものが多くあります。きょうのたとえも、人々に親しい農作業や家事労働のイメージを喚起させています。当時の現実に合って、種を撒く人(「人」)は男性であり(男性名詞)、パン種を粉に混ぜるのは女性です。

 イエスは、いま、ここにやって来ている神の国(神の支配)を「からし種」にたとえます。からし種は聖書に登場する植物で一番小さなものです(けしつぶのような)。そんなちいさなからしだねが、空の鳥がその枝に巣を作るような大きな木になっても、空の鳥を追い出してしまったら、その木は枯れてしまうでしょう。ここで、空の鳥は異邦人、宗教も生活習慣も違う人々を意味しています。違いをもった存在が一緒にいてこその大きな木なのです。

 パン種も、それがどんなに多くの粉の中に埋もれているかのようであっても、全体を膨らませる力を持っている、それを押し潰したり、排除することはできないのだということを表しています。そして、パン種が小麦粉を一方的に浸食、変質させることで大きなパンを膨らませているのではなく、それぞれの性質が他の成分との接触、それによる互いの変化によってパンが出来上がっています。これも、違ったもの、異質なものとの共存です。このように、この世の価値基準によらず、異質な存在を受け入れ合う共存、それが祝福される場所が、神の国(神の支配)です。

 神の国(神の支配)のたとえは、イエスの歩み、人々との関わりがそうであったように、違った者、考え、過去、現在と向き合い、受容と共生による生き方への招きです。それは、独占と排除によって押しやられる人間の解放です。

 この招きに応える私たちは、小さな存在を見失わないでいること、異質な存在を排除することなく向き合うことをとおして、お互いが変わり合いながらいのちの喜びを共有する生き方を願い、求めたいと思います。そこに、この困難に満ちた世界、社会が変わっていく、小さいかもしれない、けれども確かな希望の種を見つけることができるに違いありません。

 

2015年 2月15日(日) 説教題:「いらっしゃいませ」 聖書:ルカによる福音書9章10~17節

 湖山教会創立65週年を迎え、神さまに深く感謝する。砂地の上に蒔かれた種は、歴代の牧師の導きによって植えられ、信仰の先輩方である信徒一人一人の奉仕によって潤いを受け、神さまの恵みによって成長することができた。
  湖山教会の初めを思い返す時、宣教師の方々の苦労を忘れてはならない。私たち、日本のキリスト教プロテスタントはアメリカから来た。それは、国教を持つドイツやイギリスではなく、国家から自由を得た宗教として到来したことは重要である。 
 世界伝道の思いが高まったアメリカでは、それぞれの教派が競うように日本を訪れ、英語や文化、高い知識と共にキリスト教を伝えた。それに触れた人々は、言葉の自由を、芸術の自由を、精神の自由を得たことであろう。
 聖書では五千人に食事を分け与えた話がある。ここで問題なのは、「男だけで」と言う数え方である。当時は大人の男性以外は頭数に入らなかった時代である。女性、子ども、お年寄りは人間として見られず、足りない弱い存在だった。
 湖山教会の信仰の土台は4人の女性である。そして、その4人は最も忙しい農繁期に、目の届かない子どもたちの面倒を見る働きを始め、それがひかり幼稚園となり、今のひかりこども園につながっている。
 湖山教会には小さな子どもも一人の人間であり、一食が与えられる。弱い存在を認め、社会の中で自由を与える。どのような人であっても受け入れて、与えていく愛が根底にあることを覚えたい。

 50周年記念誌に上山道乃姉を偲んで、齊藤香子姉がこう書いている。「道乃さんはどんな人でも「ああ、いらっしゃい」と気軽に部屋にあげてくださり、なにかと食べさせて下さって、くつろがせてくださいました。ものを食べるということは人の中に語らいを生み出します。そしてさらに、人の深い出会いも生み出します」 
 道乃さんが一人一人に声をかけた、「いらっしゃい」の一言が今の湖山教会のつながりを生んだ。今ここにいる私たちも神さまに呼ばれて集っている。これからも、どのような人にも開かれた教会として「いらっしゃいませ」の心を大切にしたい。

 2015年 2月 8日(日) 説教題:「喜びと悲しみの分かれ道」 聖書:ルカによる福音書5章12~26節

 1つの出来事にも、喜ぶ人と悲しむ人がいる。人生を振り返って、喜ぶことと悲しむことを数え上げたとしても、それはその人の受け入れ方であって、どのようなことにも、喜びと悲しみは含まれているのかもしれない。
 今日は、二人の病人がいやされることによって、イエスさまとはどのような方であるのか、また、病をいやされることが、神さまを信じることとどうつながっているのかを学んでいきたい。
 一人目は重い皮膚病を患っている人が出てくる。当時、病気は悪い霊がその人に入っている証拠だとされていたため、町から追い出されていた。病気とは体の痛みだけでなく、孤独が心をむしばむ辛さがあった。
 イエスさまが、その人に触れて「いやされた」と言うのは、治療の意味での癒しではなく、心の傷に触れられたことであり、再び、自分の居場所に戻るための力を与えられたのだ。人間関係の回復こそがいやされたのだ。
 そして、二人目は中風の病人がやってくる。中風とは体の麻痺があることを言うようだ。どのような病気が原因かは分からないが、中風を患う人は友人たちに連れられて、いやし人イエスのもとにやってきた。
 中風の人に向かってイエスさまは「あなたの罪は赦された」と言うと、いやされた。それは、本当の意味でのいやしとは、罪の赦しだということなのだ。そして、人間関係の回復だけでなく、神さまとの関係を回復することである。
 イエスさまは、病の人に向かって罪が赦されたと言うのと、床を持って歩けと言うのと、どちらがやさしいかを考えるようにと言っている。どちらが正しいかではなく、やさしいかが人間にとって大切なことなのだ。
 ある意味、病とは見えない形で私たちの中にすでにあるのだ。ある人をのけものにしたり、ある人が大切にされることに怒りを感じたり、正しさを主張して周りの関係を崩してしまったりする。だからこそ、神さまに支えられている命は、病気であっても、健やかに生きることができる。私たちは、ゆるされて、愛されている。

★ 2015年 2月 1日(日) 説教題:「殻をやぶる時」 聖書:ルカによる福音書8章4~15節

 イエスさまがお話されるとき、弟子ではない人たちには「たとえ話」をよく使われた。日常にある分かりやすい出来事にたとえながら、神の国について語った。その中に、今日の「種を蒔く人」の話も含まれている。
 当時の農業の様子なのか、今のように畑を耕すことはなく、どこにでも種を蒔いていたようだ。種はそれぞれ、道端の上、石地の中、茨の間、良い土地に落ちたとある。
 その話の意味を聞いた弟子たちには、種は神の言葉であり、土地は人間の様子だと言う。神の言葉を聞いたが心に入らなかった人、初めは神の言葉を喜んだが、試練があって離れた人、神の言葉より他のことに気が向いていった人、最後に、神の言葉をよく守り、実を結んだ人のことだと。
 このように聞くと、神を信じる人の中に4種類があるように聞こえる。しかし、この話を聞いて、例えば、あの人は道端の上の信仰だとか、あの人は立派で良い土地の信仰だと、そういう話をしたいのではないだろう。
 私たちの心、その畑の状態は常に変わる。やわらかくて種である言葉をしっかり受け止める時もあれば、固い石のような頑固な気持ち、茨のようにすぐに生える誘惑に負けることもある。4つの状態は、一人の人間、私のことを言っているのだ。
 そして、その心のやわらかさを保つために、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われている。弟子たちは、話の意味が分からなくてイエスさまに聞きに来た。私たちも分かっているつもり、知っているつもりになっていたり、時に聞くことが恥ずかしいような世間体に縛られていたりするかもしれない。
 神さまの言葉は難しく、受け取りにくい部分があるのは確かだ。しかし、それは頭の良さを求められているのではなく、素直に神さまの前で求める姿を知るためである。
 今、私は神さまに対して、どのような心の状態なのだろうか。神さまの言葉を受け入れられない時もあり、他のことの方が大切に思える時もあるが、希望を与えた神さまの言葉が、必ず花開く時を信じて待ちたい。