説教要約(12月)

2015年 12月 27(日)  説教題:「夜空の星が光るころ」  聖書:マタイによる福音書2章1~12節

 世間ではクリスマスが終わり、慌ただしい中で年末年始の準備が行われています。教会暦では、クリスマスは16日までです。16日はキリストが成人になり、神の子として洗礼を受けたことを記念する日、公現日と言います。
 聖書によれば、東方から来た占星術の学者たちが、イエス様の誕生を見届けたとあります。星に導かれた出会いでした。そう、クリスマスとは、イエス様に出会うことです。
 ある町にガプトンと言う年配男性がいました。彼は神様を信じていましたが、数年前に妻を失って生きる気力がなくなり、早く神の国へ行くことを願っていました。この人にとって、クリスマスも、いつもと変わらず、テレビを見て終わります。
 ガプトンは、テレビで仕事も家も失った人々が宿泊施設にいる様子を見て、自分の家に招こうと思いました。お金はないけれど、狭い部屋が1つだけ空いていたからです。一人だけの予定でしたが、若い夫婦が家に来ることになりました。
 遠慮がちに振舞う若い夫婦と、互いに協力しながら、良い関係を築いていきました。そして、数か月もしないうちに、夫の方は仕事を見つけることが出来ました。すべてが順調に動いていました。
 しかし、状況は変わります。ある日の昼食の後、若い夫婦から相談がありました。仕事が見つかったから出ていくのだろうかと心配しました。でも、それではなかったのです。「赤ちゃんが生まれるのです」、そのことを聞いて狼狽しました。
 一人だけ来てもらうつもりが、いつの間にか、三人になるのです。「どこに赤ん坊を寝かす場所があるんだ」。ガプトンは心で叫びながらも、この家にいることを了解しました。慌ただしく準備が進む中で、聖書の言葉に目がとまります。
 「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ガプトンは思いました。イエス様には生まれる場所もなかった。だからこそ、クリスマスは心を広くしなければならないと。
 次の年のクリスマスを4人で祝いました。ガプトンは赤ん坊と見つめ合いながら、神様の導きによって与えられた出会いに深く感謝したのです。キリストは、どのような姿で来られるか分かりません。ですから、いつでも、心を開けていましょう。

2015年 12月 20(日)  説教題:「家に帰ろう、共に祝おう」  聖書:ルカによる福音書2章8~21節

 クリスマス、おめでとうございます。今日、御子イエスさまが私たちのためにお生まれになりました。これは全世界に向けた神様からのプレゼントでした。そして、これまで人類が守ってきた希望の光でもあります。
 御子イエス様に会いに来た中に羊飼いがいました。想像するに、動物を扱う仕事ですから、羊飼いたちに休む日などなかったでしょう。恐らく、日々の感謝の祈りも、礼拝も忘れて、ただ、目の前のことをこなすのがやっとだったのだと思います。
 そのような羊飼いの前に天使が現れた時、祈りを忘れ、神を忘れていた自分に気が付いたのです。それだけでなく、そのような自分をも神様は覚えていてくれたことを知ったのです。それが、羊飼いたちの喜びでした。
 先日、近くの刑務所のクリスマスに参加することが出来ました。その時に出会った方に、受刑者の中でキリストと出会った人のお話を聞くことができました。
 ある新聞に、共に過去に犯罪経験のあるシロアムキリスト教会主任牧師の鈴木啓之氏と、カトリック信者でNPO法人マザーハウス代表の五十嵐弘志氏の対談が載っていました。
 お二人の共通の理解はこうでした。1つは、家でも学校でも居場所がなくなっている子どもが増えていること。2つは、刑を終え出所してきた人たちに対するケアが無きに等しい現状を説明し、そのために生活ができず再び犯罪に手を染めてしまう傾向が高いこと。
 居場所がないために犯罪に向かい、犯罪によってさらに居場所を失ってしまう。この出口なき苦しみの中にいるのです。今、日本の社会に「家」なるものが必要だということなのでした。
 クリスマスは誕生を祝う日です。そこには、新しい生き方を選ぶことも含まれていると思います。つまり、飼い葉おけに寝かされている幼子イエスキリストは、イエス様でもあり、新しく生まれ変わったあなたの姿でもあるのです。
 そして、これまでの環境、家族関係や兄弟、友人関係を乗り越えて、神の家族となるのです。教会はいわば、私たちの家なのです。ですから、一人でも多くの人がこの場に帰ってくることを神様は天で喜んでおられます。

2015年 12月 13(日)  説教題:「まっすぐに生きる」  聖書:ヨハネによる福音書1章19~28節

 私たちなら、あなたは誰か、と言われると、名前や出身を答えるかもしれない。ヨハネは、表面的なことではなく、真理や真実と言われることについて答えようとしている。だから、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答える。
 洗礼者ヨハネの自己紹介はこのような意味かもしれない。この世界は豊かでありながらも、愛に飢える荒れ野。その殺伐とした世界にいる人々に呼びかけるために、この命をささげたいのだと。
 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが世界に来る前に、準備をするために生まれた。先駆者として、希望のない時代に生きる人々に、もうすぐ、救い主が来ることを知らせ、待ち望むように励ます。
 湖山教会において先駆者となった一人、上山たけ姉を紹介したい。たけ姉は、8人兄弟姉妹の五女として鳥取で生まれる。活発な女の子で、兄や弟と同じようにやんちゃだったため、父からは「たけたろう」と呼ばれていたらしい。
 たけ姉がキリスト教と出会ったのは花嫁修業の傍ら、誘われて近くにあった鳥取教会に行った時であった。両親には内緒でキリスト教の洗礼を受けたため、秘密を守るのに苦労しながら教会に通った。その後、上山保一さんと結婚され、家族愛の深い上山家で、二人の子どもも与えられて幸せに暮らすようになった。
 しかし、幸せはそう長く続かない。上山家の義母が逝き、その後を追うごとく、夫保一が永眠。その時、26歳のたけ姉の悲しみははかりしれない。家族を守るために助産婦免許の勉強を始めて、子育てしながらも何とか取得。
 これまで、影となり、日なたとなって守ってくれた義父が倒れ、小康を保ったものの亡くなった。その日が1225日だった。その後は第二次世界大戦の混乱があり、湖山教会ができるのは戦後のことである。
 この教会でクリスマスを祝ったたけ姉は何を思ったのだろうか。最後まで看病を見た義父の顔であり、先に逝った愛する人たちだったか。まるで、ヨハネの語る荒れ野をさまよう人生だろう。しかし、その曲がりくねった道のりをたけ姉はまっすぐに生きた、神を信じて。クリスマスは私たちの心の闇を照らす希望である。


2015年 12月 6(日)  説教題:「幼子は、なぜ、生まれたのか」  聖書:ヨハネによる福音書5章36~47節

 ヨハネによる福音書は、イエス・キリストがなぜこの世界に来られたのかを考えている。数多く行われたイエスさまの奇跡から7つを選び取り、7つの奇跡を通してそれに答えようとしている。
 ヨハネによる福音書5章の初めには、その第五の奇跡、38年間病気だった人のいやしの話がある。ベテスダという池には伝説があり、池に波紋が広がる時、最初に池に入った者が癒されると言われ、天使が下りて来て、池を波立たせるからだと信じられていた。
 恐らくは、病気のいやしという奇跡を語った物語の1つだが、ヨハネによる福音書はその中に新しい意味を求めた。ただ、肉体の痛みや苦しみの解放だけでなく、自分は神に見放されたという魂の渇きをこの人に見たのである。
 そうであれば、この池のほとりにいる病人は正しいと知りながらもそれを実行できない人であり、目の見えない人は絶望という暗闇の中にいる人であり、足の不自由な者は挫折して前進できない人であり、体の麻痺した人とは生きる気力を失って力が入らない人なのだと言える。
 そして、イエス・キリストは、そのような人々を助け、いやし、新しい命を与えるために来たのである。38年間も病気だった人が、最後には「起き上がりなさい」と言われて新しい人生を歩む。この言葉は復活を意味する言葉であり、復活を信じて生きるようになったことを語っている。
 イエスさまは、人からの誉れを受けないで、神からの誉れを受けるために生きた。誉れとは「栄光(ギリシャ語ドクサ)」であり、栄光とはすべてを神様に帰すること、お返しの人生を歩むことである。
 イエスさまは魂の渇きを感じている人々を助けに来られた。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16