説教要約(11月)

2015年 11月 29(日)  奨励題「神の声を聞くのなら」(地区講壇交換礼拝)  聖書:ヘブライ人への手紙3章7~8節

     他教会の先生による説教だったため、要約はありません。
    

2015年 11月 22(日)  奨励題「あなたはわたしに従いなさい」(特別伝道集会礼拝)  聖書:ヨハネによる福音書21章15~23節

 講師による奨励だったため、要約はありません。

2015年 11月 15(日)  説教題「おめでとう、ありがとう」(子ども祝福合同礼拝)  聖書:イザヤ書11章1~2節

 イザヤ書の「エッサイの芽」とは英雄ダビデのことです。ダビデは7人兄弟の末っ子でした。お兄さんたちは、力が強かったり、頭が良かったり、とても、小さなダビデにはないすごいところが、たくさんありました。
 小さなダビデは、お兄さんたちのように仕事はできないため、羊の番をしていました。それでも、ダビデは動物たちが大好きでしたから、羊の一匹、一匹大切にし、時に襲ってくるオオカミをやっつけて、羊たちを守りました。
 ある時、ダビデが住んでいる国が戦争になりました。他の国と戦わなければなりません。お兄さんたちは兵士となって家から出ていきました。小さなダビデはというと、時々、お兄さんの所にご飯を届けるお手伝いをしていました。
 そのご飯を届けた時のことです。いつもより、お兄さんたちの顔が悲しそうな顔をしていました。なぜ、お兄さんたちは元気がないのか聞いてみると、どうやら、とても強いゴリアテという敵が出てきて戦いに勝てないようなのです。
 ゴリアテは大男でした。大人がゴリアテの横に行くと、まるで、子どものように見えるくらい大きかったのです。でも、ダビデはゴリアテが、神様のことをバカにしているのを聞いて腹が立ちました。「僕、王様の所に行ってくる。」
 小さなダビデがやってきて王様はびっくり。そして、ダビデがゴリアテを倒したいと言うと、また、びっくり。王様は武器と鎧をくれましたが、ダビデの小さな体には合いません。ダビデは言いました。私が勝てるように祈ってください、王様。
 ダビデはいつも羊たちを守る時に使う石投げを出しました。川の近くに行き、投げやすそうな石を拾いました。拾いながら祈りました。神様、力を与えてください。
 ダビデを見たゴリアテは笑いました。小さな子どもじゃ、何もできない。でも、ダビデは言いました。神様を信じる僕にこわいものはない。そして、投げた1つの石でゴリアテを倒したのでした。ダビデは小さな子どもでしたが、お祈りによって大人にもできないことをしました。
 神様の祝福がみなさんにありますように。おめでとうございます。

2015年 11月 8(日)  説教題「わたしはそこにいます」  聖書:ヨハネによる福音書8章51~59節

 ヨハネによる福音書は、根本的にキリストとはどのような存在かを考えている。それを世界の初めから考え直していることは前回に学ぶことができた。今回は、その中で旧約聖書の読み方を考え直している。
 ここでは、アブラハムの姿が描かれている。イスラエル民族の父であり、聖書の神に信仰を始めた、信仰の父でもある。神はアブラハムと契約を結び、安心して住める土地を与え、そこで子孫繁栄ができるように語っている。
 しかし、このヨハネ福音書では、モーセに語った言葉がアブラハムに語ったように描かれている。神の名前を意味する「わたしはいる」という言葉は、本来はモーセが受けた言葉だったからである。
 アブラハムも、モーセも旧約聖書においては大切な人物である。でも、それぞれが意味するものは違うかもしれない。アブラハムはまぎれもなく、民族の父であるが、モーセはエジプト人に育てられたという経緯がある。
 その点で、モーセは異民族との交流を意味し、異民族の中で信仰する姿をあらわしているのかもしれない。そうであれば、イスラエル民族という壁を超えて、聖書の神が世界に広がる1つの契機をモーセの言葉は意味している。
 そのモーセの受けた言葉をアブラハムも受けたということは、アブラハムに始まった信仰は民族を超えて世界に広がっていくことであり、私はいるという言葉は多くの言語で語られるようになることを意味している。
 ヨハネによる福音書には「わたしはいる」という言葉を形を変えて表現している。たとえば、「わたしはぶどうの木である」というがそうだ。モーセが受けた神の言葉を、それぞれの生活場でふさわしい表現にしている。
 ヨハネによる福音書は、キリストとは神の言葉が肉体を持つ姿という。この受肉という考えは、「わたしはいる」という言葉をより現実的な生活の場に持ち込むことである。「わたしはそこにいる」というメッセージなのである。


2015年 11月 1日(日)  説教題「命の種、芽吹く」  聖書:コリントの手紙Ⅰ 15章35~44節

ここ数年、日本でもハロウィンが行事として認められてきている。本来は、カトリック教派でなされる諸聖徒の日(ハロウマス)の前日(イブ)を意味する言葉である。いわゆる、日本のお盆と似ているが、死者を悼むことは、いつしか、オバケが出てくる行事になってしまっている。

ハロウィンであれ、お盆であれ、私たちは年に一度、失った命を振り返ることを、人間本来の欲求として持っているのは確かである。今、目に見えない存在になったからこそ、愛する存在とのつながりが失われていないことを確認する。

聖書には、この死にゆく肉体とは別に、霊の体と言うものがあると書かれている。つまり、復活した時の姿である。しかし、それがどのような状態なのかはよく分かっていない。

聖書は私たちの肉体を「塵」と呼ぶ。それは、人類最初のアダムが土(アダマ)から出来たという話があり、禁断の実を手にしたことで楽園を去る時に、「塵にすぎないお前は塵に帰る」と言われている。

肉体は塵のように空しく、弱い、もろいものであることを教えている。病気、痛み、欲望に対抗する手段を持っていない。哲学者スピノザの言葉にあるそうだが、人間の弱さを「真空の恐怖」と言っている。土の器のような人間が最も恐れるのは、失うことであり、失ったものを他のもので埋めようとする欲求なのだと言う。

愛する者を失うこと、それは真空の恐怖である。代わるものがないと知りながらも、それを取り戻そうと気持ちは破裂しそうになるまで努力する。この現実世界だけで考えようとするなら限界がある。

霊の体とは、希望のことである。どのような姿であれ、「あの人らしさ」があり、会えばすぐにお互いが理解できる関係を与えてくれるものである。そうして、神の国で再会できるよう、神様が失われた命をその手で包んでおられるのだ。

この塵のような肉体に、神様は命の種を与えられた。死によって肉体は塵に帰るが、何も意味がなかったのではない。種が芽生えて花を咲かせ、実を実らせて、新たな種を生むように、私たちに生きる力を与え、復活を信じる希望を与えてくれている。