説教要約(10月)

2015年10月25日(日)  説教題「ことばから生まれる」 聖書:ヨハネによる福音書1章1~14節

 新約聖書には4つの福音書が記載されている。それぞれの視点でキリストについて書かれているのだが、ヨハネによる福音書はその中で異質な感じを受ける。それは、キリストとは何者だったのかという問いを根本から考えているからである。
 福音書はキリストについて、まず、どのように死んだかということから始まり、どのように行動したか、どのように生まれたかという所まで、さかのぼって書かれてきた。
 ヨハネによる福音書は、更に、キリスト誕生よりも前にある神の創造の時に、すでにキリストはいたことを明確にした。「初めに言があった」という書き出しは、旧約聖書の創世記の書き出し、「初めに、神は天地を創造された」という言葉を思い起させようとしている。
 創世記では神が呼びかけると1つ1つの物が生まれたと書かれている。「光あれ」というと光が生まれたというように。ヨハネによる福音書の著者は、それを言葉による創造だと考えた。それも木の葉のようにひらひらと、その時々に変わる言葉ではなく、変わらない真理を意味することを含めて言(ことば)と表現している。
 神は世界にある1つ1つの要素に呼びかけて命を与えた。そして、キリストは、その命を持つ人間に呼びかけて、再び、神の目に適う生き方に帰るように呼びかけている。それは、罪が赦されて生きることである。
 私たちは、今、その時に必要な言葉を探し求めている。答えであり、納得できる説明を求めている。しかし、神の言(ことば)は、その先にある将来を理解するために前もって与えられている。神の言は、初めにあり、最後にある。
 神に呼びかけられて、命を与えられたと知る私にとって、生きるとは神に答えることである。命の最後に、どのような言葉を語ることができるか、感謝なのか、不満なのか、喜びなのか、悲しみなのか、そのすべてを含めて、「アーメン」(神さまの言う通りにしてくださいの意)と答えられるよう、一日一日を、神に導かれたい。

2015年10月18日(日)  説教題「与えられた日々を」  聖書:ルカによる福音書19章11~27節

 イエス様のたとえ話を福音書はそれぞれの考えを持って物語っている。同じ部分もあれば、異なる部分もあり、聞き手によって感じるところが違うことを意味している。その中にも、神への信頼という軸は貫かれている。
 「ムナのたとえ」は、マタイによる福音書による「タラントンのたとえ」と比較することでその意味が見えてくる。丁寧に見れば多くの部分で差異が見つけられるが、特に、お金を僕たちに託した人と、その金額について見てみたい。

    まず、話の初めと終わりにしか出てこない人物、僕たちにお金を託したのは、これから王になろうと願って
  いる人となっている。マタイ福音書では、ただ「主人」となっている。

 これは、王位を受けようとしてローマに向かった当時のユダヤ地方の支配者だったヘロデ・アケラオのことだと言われている。ルカ福音書では、そのアケラオを念頭に置きつつ、本当に王となるべきは誰かと問うている。
 そして、もう1つの金額だが、マタイ福音書では僕たちの力に応じて異なる金額が渡されていた。しかし、ルカ福音書では皆同じ1ムナだった。金額の単位も100倍ほど少額に変わっていた。
 つまり、ムナとは、誰もが与えられている変わらない神の恵みであって、環境が違い、能力が違っても、それは誰にも与えられていることを意味している。そして、その恵みは、私たちの目には小さく見えるものであって気付きにくいのだ。
 その点でムナは人間が与えられているものは、見える部分だけに限らないことを教えている。11つの出来事を振り返る時に、神の恵みによって支えられてきたことを覚え、同じ神の愛につながっていることを確認したい。
 気になるのは、王が最後に残した厳しい言葉である。でも、イエス様は他でこのようにも言っておられる。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えられることを知っている。まして天の父は求める者に政令を与えてくださる。」そうであれば、権力に飢えた王でさえ与えるのなら、父なる神は豊かに与えて下さると信じたい。

2015年10月11日(日)  説教題「繰り返す罪と赦し」  聖書:ルカによる福音書17章1~10節

 キリスト教は赦しを語る宗教だと言える。法律で言うところの許しではなく、人格的な意味で相手の罪を責めないということであろう。ここでは、神に背く罪とは別に、人間関係の中での過ちを語っている。
 聖書は人間関係における罪を「つまずき」と表現している。教会においては、人間関係と神様との関係は密接につながっている。誰か一人でも会いたくない人がいると、教会に行く足も止まるからである。その意味で、人間関係の問題は神様の側に歩み寄る道の「つまずき」になってしまう。
 聖書では、その人間関係での問題を何度でも赦すように求めている。7は完全を意味する数字であり、何度でもという意味にとることができる。しかし、これは難しい要求に感じる。
 罪がこの世界に起こったのは旧約聖書では創世記の時代である。人類最初の殺人事件は兄弟のカインとアベルの間で起こった。殺人者カインの末裔は罪の系譜としてわずかに聖書に記述されている。
 カインの子孫レメクは、その記述によると激しい復讐者であったようだ。自分に軽いケガを負わせた相手を死に追いやり、また、そのことを誇らしく歌っている。その姿を見ると、人間が「復讐者」であるという一面を教えている。
 聖書では、そのような激しい復讐心をとどめるために律法の中で贖い、いわゆる、弁償する方法を決めるようになった。これは聖書だけでなく、人類のあらゆる文化でもそうであり、有名な「目には目を、歯には歯を」という言葉が生まれて来たのだ。これは、行き過ぎた復讐を止めるためにこそある言葉である。
 つまり、赦しを語る時、聖書は人間が赦すどころか、復讐したい気持ちに揺り動かされる弱さがあることを十分理解している。だからこそ、イエス様は「あなたは赦された」ということを私たちに語られた。
 私たちは赦そうとして、そうできない弱さを持っている。その弱さに対して、赦すのではなく、赦されてきたことを思い出し、数々の赦しの中で生きる私に何ができるかという気付きの中で、相手を自分と置き換えるのである。赦せないという怒りは人を狂わせるからこそ、神の手にそれを委ね、解放されて歩みたい。

2015年10月 4日(日)  説教題「いつまでも愛されて」  聖書:詩編103編1~8節

 今日は敬老祝福礼拝を迎えている。教会歴の中には敬老を祝うということはないが、旧約聖書では長く生きることは神様の祝福であるとされており、また、長く生きることから、神様の守りをより深く知るのだと言える。
 詩編には、生きる者すべてが神様の祝福を得て、鷲のような力強さと若さに満ちることが書かれている。それは、人生のどの時期にあっても信仰が生きる支えになるからだと聖書は伝えたいのだ。
 世間で行われる敬老会と教会での行事もさほど違いがあるわけではない。世間では、これまで長く生きたことを喜び、また、その働きを感謝するものだが、教会においては、神と共に生きる姿を今も実現している人として、年長者を敬うのだろう。
 そして、その敬老者から与えられるものは豊かである。知識の面では現代の情報化社会において新しいことはなくなってしまったが、生きる知恵として、敬老者が語る言葉には重みがある。
 ここに一冊の絵本がある。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」というタイトルだ。一人の男の子とそのおじいちゃんが登場する。男の子は大きくなるにつれ、自分の身の回りにたくさんの心配事があることに気付いていく。
 病気、ケガ、人間関係、その他にも小さな不安がたくさんある。その小さな心に向かっておじいちゃんは「だいじょうぶ」という声をかけるのだ。何か理由があるのではなく、その生きてきた姿から語れる一言で男の子は安心する。
 つまり、「だいじょうぶ」と言葉は、生きてきた姿そのものであり、人生に思い浮かぶ多くの不安を背負ってきた姿なのだ。そして、その不安の中でも神様を信じ、神様に守られたからこそ、語れる言葉なのである。
 敬老者一人一人に感謝と祝いの気持ちを深くするとともに、それぞれが神様と歩んできた道で、不安と恐れに向かい合いながら、今もこうして生きておられる姿を見る。それは、これまで神様に愛されてきた証であり、これからも、いつまでも愛されるように願っている。それに続く私たちも、神様に信頼し、神様の守りがあることを多くの人たちに「だいじょうぶ」という言葉で伝えていきたい。