説教要約(9月)


★ 2014年 9月28日(日) 説教題「欠けた食卓」 マルコによる福音書 43章1〜9節

 「ナルドの香油」についての物語は、讃美歌になるほどに愛されている。1人の女性が出来る限りの思いを込めて、けなげにイエスさまへ香油を注ぐ場面は、想像しても胸にぐっとくるものである。
 さて、ナルドの香油とは、ヒマラヤ山脈の高地に生えるオミナエシ科の草本、甘松香の根から採取した高価な香油で、鎮静や健胃薬、線香として使われるようだ。
 ヨハネによる福音書では、1リトラ(約300g)だとあり、それが300デナリ、300万円相当であるなら、それを捧げた女性にとっても、人生で大きな買い物だったに違いない。彼女の気持ちの大きさをそこに感じる。
 だが、その美しい女性の思いに不協和音が響く。周りからの非難だ。さも、全うな意見のように、それだけの高価な物であれば、売って沢山の貧しい人に施せばいいと言うのだ。
 この意見は確かに正しい、だが、香油の価値の問題ではないはずだ。彼女の気持ちなしに、お勘定だけで考えてしまい、せっかくの気持ちを台無しにしてしまう。それは、意外とよくあることなのだ。気を付けたい。
 イエスさまは、女性の行いと周りからの非難を見聞きしながら、最後には、この「ナルドの香油」に込められた思いを大切になさった。無駄になったとして、伝えたい思いがある時、それを恐れずに捧げることが愛なのだろう。
 彼女はその機会を見失わなかった。この意味ある無駄は、思いを伝えるためにどれだけ多くの無駄が必要であるか、それを教えてくれているようだ。そして、何よりも、この彼女がした無駄なような行為は、神の思いなのだ。
 神さまは罪深い人間のために、愛する独り子を捧げた。この無駄とも言えるような、その中に神さまの愛が深くあることを知る。その命を他のために使うことも出来たが、無に帰するとも、十字架上で捧げてくださった。


★ 2014年 9月21日(日) 説教題「あなたがいて、わたしがいる」 ルカによる福音書 3章23,24,38節

 敬老祝福の日を迎えた。祖父母のことを思い出しながら、ふと、よく読んだ絵本があったことに気が付いた。題は「おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん」(作 長谷川 義史)だ。
 絵本の内容は至って簡単である。5歳のぼくが、おじいちゃんのおじいちゃんの・・・と、過去の先祖をたどっていく物語である。何と言っても面白いのが、ひぃひぃひぃ・・・・おじいちゃんという部分。何回も「ひぃ」と言いたい子ども心をよく分かっている絵本だと思う。
 自分の先祖をたどっていくというところは、先祖崇拝的かもしれないが、絵本はそんなことではなく、誰一人いなくなっても、今の自分は生まれなかったという、人間のつながり、世代的なつながりを教えている。
 おじいちゃん、おばあちゃんがいて、今の自分がいるんだ。そのことにありがとうを感じさせる絵本ではないかと思う。何をしてもらってありがとうもいいけれど、ただ、存在していることだけで、感謝することも大切だ。
 絵本の最後には、人間の祖先は「サル」となっているが、聖書の中ではアダムが初めての人類である。そう、みんなのひぃひぃひぃ・・・・おじいちゃんになるだろう。
 ルカによる福音書は、一般的な系図と違って、時代をさかのぼるように書いている。それは、誰もがアダムを中心とする人間のつながりに入っているからである。そして、最後には「神に至る」としめくくる。
 「あなたがいて、わたしがいる」それは、まず、自分の祖父母に対して思う感謝であるが、それをたどっていけば、アダムがいて、それを作った神さまに出会うことにある。先祖に感謝しつつ、その命を作って守ってきてくださった神さまに感謝することこそ、敬老祝福の日に覚える大切なことである。

 

★ 2014年 9月14日(日) 説教題「やかましいほど近い」 コリントの信徒への手紙T 13章1〜13節

 耳にタコができるほど、親から口うるさく言われた日々があった。最近、電話ごしに聞く母の穏やかな声に、やかましいと思っていたあの頃、それほどまでに親が近くにいたことを今更ながらに感じる。
 2011年の米映画、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、一人の少年が父との死別を体験し、葛藤を経てそれを受け入れていく。映画の目的はさておき、私は遠くにいても、近くに感じる愛情の強さを知った。
 今日の聖書個所は、「愛の賛歌」と呼ばれている。結婚式でも使われ、内容も言葉づかいも、とても美しい。途中の4節から下記に紹介してみよう。
 愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛というものは美しい、と同時にそれを手に入れるのは難しいように感じる。愛という部分に自分の名前を入れて読む時、自分の足りなさを恥じるからである。
 愛は忍耐強い、そこから始まっていることは、ある意味で現実的である。恋愛ならば、嫌いになれば別れることもできるが、家族というつながりの中では、そうはいかない部分がある。
 忍耐とは、より近くにいて寄り添っている姿のことである。やかましくて、うるさくて、それでも、近くにいる。近くにいるからこそ、そう感じることもある。互いにそう思いながらも、ゆずりあって、ゆるしあっていく。
 近くにいても遠くに感じる時代である。便利とか、快適という言葉の中に、他者を遠ざけるものが入ってくるからだ。遠くにあっても近くに感じられるように、キリストが十字架上で忍耐された姿にならいたい。


★ 2014年 9月 7日(日) 説教題「地の果てにまでも」 使徒言行録 13章44〜52節

 使徒言行録は、十字架の死後に復活したイエス様と出会った弟子たちが、どのように活動したかを記録している。弟子たちの活動対象は、ユダヤ教徒たちと、その他の異邦人に対する2つのグループに分けられる。
 イエス様もその弟子たちもユダヤ教徒であったため、活動当初は、ユダヤ教徒と同じ会堂を使っていたが、同族憎悪と言われるように、イエス・キリストの福音を伝える人々は迫害されるようになる。
 そうして、パレスチナから散っていた人々は、あらゆる人種と出会い、広まっていくのだが、当時地中海一帯を領地としていたローマ帝国からも迫害されることになっていく。
 歴史を紐解けば、ローマ帝国の迫害がどれほど激しかったかは見えてくるが、逮捕されたキリスト教徒は拷問を受けたり、闘技場で猛獣と戦わされたりとその小さい集団の存続は消えかかっていた。
 しかし、迫害が厳しくなればなるほどに、キリスト教徒は離散と布教を繰り返して、いつの間にか地中海一帯に広まるほどになった。このように評価するのはどうかと思うが、確かに迫害によって布教も進んだのである。その後、広がったキリスト教がローマ帝国の国教になるとは誰も考えなかっただろう。
 教義や教理は有名な哲学者たちによって整えられていったのだが、キリスト教の原動力は、この迫害の時期に培われたのだと思っている。迫害による苦しみを抱えながら、新しい土地に入り、そこで同じ苦しみを共有する人々とつながって神の言葉を信じる集団が生まれていったのだ。
 そのようにして、キリスト教は広まるにつれて、多くの痛みと悲しみを吸収しながら、そのすべてを十字架に結び付け、地の果てにまでも広がって行ったのだ。それは、言い換えるならば、人の痛みのすみずみにまで、苦しみの奥底にまで浸透していく出来事だったのだ。