説教要約(8月)


★ 2014年 8月31日(日) 説教題「正義の節穴」 マルコによる福音書 10章46〜52節

 バルトロマイは、目が不自由な人だった。神さまの癒しによってその眼は再び光を取り戻すが、それは肉眼のことだけではない。この物語は、普段、私たちが見えなくなっている「視点」についても語っている。
 「隣人愛」はキリスト教にとって大切な教えである。私はその言葉の意味だけでなく、具体的な他者が隣人として見えているかが重要だと考えている。
 沖縄の歴史や基地問題について知っていたが、具体的な他者がいない限り、同情から問題に関わるのは失礼だとも思っていた。それを変えたのは、1人の沖縄からの来訪者だった。私にとって隣人の問題になったのだ。
 8月を平和月間として歩んできた。力不足ながらも、沖縄の歴史や現状について語り、私たちの平和が土台にしている危うさ、歴史の中で沖縄を忘れ去り沖縄に基地を負担させてきたことを振り返った。
 歴史的な沖縄の悲劇を学ぶたびに怒りを覚え、また、それを放置してきた自分の愚かさを恥じた。怒りと悲しみに押し出されながら、沖縄のことを知っていただこうと地区でも1つの映画を上映した。
 しかし、その学びの中で沖縄への関心が低いことに、段々と目が向くようになった。関心の低さが今の現状を生み、沖縄を苦しめていると思うと怒りさえ感じるのであった。その正義感は周りの人を責め、苦い思いをした。
 その正義感に嫌気がさした頃、子どもの教会で話しているヨナの物語に思いがけなく心打たれた。神さまに従わず悪を行うニネベの町にヨナは滅びを預言するのだが、改心したニネベの町を神さまは赦そうとされるのだ。
 滅びを宣言した預言者ヨナにも意地があったのか、ヨナは神さまに対して怒る。神様は「お前は怒るが、それは正しいことか。」と聞かれた。私の怒りは正しかったのだろうか。正義の建前に「節穴」があって、大切な何かを見落としていたかもしれない。平和に必要なのは神さまの正義であり、人の正義は全て打ち崩され、そうして、神さまの前で和解できるのだから。

★ 2014年 8月24日(日) 奨励題「他力本願」 ルカによる福音書 12章22〜34節

    ※信徒奨励だったため、要約はありません。

★ 2014年 8月17日(日) 説教題「平和の味」 マルコによる福音書 9章42〜50節

 見事な装飾付きの傘と自前の衣装を着て踊る「しゃんしゃん祭」は、鳥取の夏の風景だ。今年の第50回は一段と盛り上がったが、もし、あの踊り子たちの中に、1人でもビニール傘でスーツ姿の人がいれば台無しかもしれない。
 8月に入って、子どもたちと預言者ヨナの話を学んでいる。ヨナは神の命令に従うことができず、逃げようとして乗った船が難破した。一緒に乗り合わせた人たちには大きな迷惑だっただろう。
 1人の悪事が全体に影響することはよく知っている。日常的に連帯責任という言葉もあるからだ。それでも、平和を考える上では、大きな枠組みである社会や国家が問題になる一方、個人レベルでは問題にならなくなってきた。
 ヨナさんによって、1人の悪が全体に影響するのであれば、その反対に善や平和も同じことが言えるのかもしれない。小さな平和が、全体に影響を与えて社会全体を変える力になるかもしれない。
 ここに1羽の折鶴がある。伝え聞いた物語では、広島にいた佐々木禎子さんは幼い時に原爆投下後の黒い雨にうたれ、中学生になる頃白血病になった。何もない時代、友人たちは心を込めて折鶴を作り、見舞いに持参する。
 禎子さんが、亡くなるまでに折った鶴は1300羽以上と言われている。動かなくなる体と恐ろしい病気と闘う術として、彼女は鶴を折り続けた。幾つか保存された彼女の鶴は、2013年には第二次世界大戦を記録したハワイのパールハーバー・ビジターセンターに送られた。
 悪いことは小さくても、神さまはお嫌いになるが、良いことは小さくても、神さまは喜んでくださり、同じように周りの人を喜びに変える力を持っている。
 聖書は、「塩を持ちなさい」と言う。塩は、少しでも全体を調和させる。そのように、神を信じる人は少なくても、小さな平和、小さな良いことによって全体を1つにをつなぐ役目が、神さまに与えられているのだ。


★ 2014年 8月10日(日) 説教題「共通を共痛に」 コリントの信徒への手紙T 12章12〜26節

 個と全体、部分と体、多くの人々が複雑に関わり合って生きる社会でありながら、同時に、その社会の一部であることが薄れていく現象がある。全体が大きければ大きいほど、1つの個は無にされる傾向がある。
 聖書では、第一に教会を1つの体として、そこに関係する個人を体の部分に例えて話している。手が足に「お前は必要ない」と言わないのと同じく、教会では、必要ないと言われる人はいない。
 聖書のたとえは明快で、小さな部分でも体には必要であることは分かっていても、それが社会や集団になると話は違うようだ。必要とされる人間となるべく求められる社会では、些細なことが人の価値を決定する。
 体の部分に例えるなら、あなたはどこだろうか。左手のように、利き手の右手を支える働きか。爪のように、先端で力を伝える働きか。または、小指のように、タンスにぶつかった痛みを全身に伝える働きか。
 「小指の痛みは全身の痛み」という言葉がある。沖縄出身の元参議院議員、喜屋武真栄(きゃん・しんえい)氏が、1969年の衆院予算委員会の公聴会で語った言葉である。
 第二次世界大戦が終戦後、1952年4月28日、沖縄、奄美諸島、小笠原諸島を切り離して、日本は「独立」した。戦争への反省も不十分に、国家の主権をいち早く取り戻すため、沖縄に米軍基地を押し付けたまま。
 小指がなければ立つことも出来ないように、私たちの平和は沖縄の痛みによって立っている。しかし、そのことを認めず、都合の良い解釈で痛みから遠ざかろうとしている。
 十字架も痛みのシンボルである。それだけでなく、痛みによってこそ、人は強くつながり続けることができることを語っている。共通の痛み、「共痛」を知ってこそ、互いの理解は深まり、その上に平和は根差すのだと信じている。

★ 2014年 8月 3日(日) 説教題「恵みの時を歩む」 コリントの信徒への手紙U 6章1〜10節

 伝道者パウロは、この手紙によると裏切りと迫害にあっていた。コリントの教会では新たな教師たちによってパウロの教えは捨てられ、パウロに従わない風潮が起こっていたからである。
 嘆きや怒りの1つもあろうが、パウロはその状況を見て「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と語っている。自分の苦悩から十字架の苦しみを思い出し、今、自分が生きる土台には、大きな犠牲があったことに感謝している。
 私たちの周りにも、当然のように受けている「恵み」がある。しかし、それがどのような犠牲の上に成り立つか、知らないためにその価値に気付かず、「恵み」だと感じられないことが多くある。
 8月は平和を考える時である。この「平和」も先ほどのパウロが感じた「恵み」と同じなのかもしれない。世界では、パレスチナ情勢が緊張感を持ち、ロシア周辺では争いがくすぶっている脇で、日本の平和は薄れている。
 2012年は沖縄の反戦運動において大きな契機だった。映画「標的の村」は、沖縄の東村・高江に米軍施設を集中させ、そこの人々を標的にして訓練する非人道的な計画に反対する思いを描いている。
 私たちは報道が機能を失いつつある中で認知が低かったが、あのオスプレイが運び込まれることに沖縄の住民が反対運動を展開させ、戦後、初めて普天間基地ゲートを住民が封鎖する事態にまでなっていた。
 琉球国の歴史は悲惨だった。17世紀初頭、薩摩藩に侵略され、19世紀には明治政府の廃藩置県により最終的に沖縄県となる。第二次世界大戦では本土決戦の時間稼ぎとして沖縄戦が行われ、実に20万人とも言われる戦死者を出した。戦後も、本土の主権復帰のために米軍基地を押し付けられた。
 沖縄に「戦後」はまだ来ていない。日本の平和の下敷きとなって苦しんでいる。「平和の最大の敵は無関心である。戦争の最大の友も無関心である。」  (「チヌドゥタカラの家」壁面にて)キリストの十字架は、これ以上自分を犠牲にしなくてもいい、そう語って重荷を解くためにあるのだと信じている。