説教要約(7月)


★ 2014年 7月27日(日) 説教題「生ける神の家」 テモテの手紙T 3章14〜16節

 「生ける神の家」とは、この現実世界に立つ教会のことである。生ける神という表現をしているのは、他の宗教で神の像を造って拝んでいたことを指して、動かない神ではなく、生きて働く神であることを意味している。
 神の家と呼ばれる教会のあるべき姿とは何か、それが課題である。具体的にはこの手紙の5章で扱われる問題が、教会の姿を現している。5章では、教会の中で保護され、支援されていた「やもめ」について書かれている。
 生ける神の働きとして、教会では夫を失った女性たちを助けていた。やもめとなった女性たちの立場は弱く、財産を奪われたり、借金の形として子どもを奪われたりと、弱者をさらに痛めつけることが横行していた。
 この手紙では、誰彼となく女性たちを受け入れるのではなく、教会として配慮できることを検討している。例えば、身寄りの有無を調べて親戚に任せたり、年齢を見て名簿に登録するか、再婚の可能性を残すかなどである。
 何よりも、この女性たちが教会でどう受け入れられるかを心配していた。社会的環境が悪いことを知っていても、何もせずに助けられるだけの一方的な支援では、いずれ、教会の中でも扱いが変わってくるからである。
 この手紙の2章では、教会はまず、祈りの場であることを訴えている。それは、イエスさまが「祈りの家」と語ったからである。そして、この「祈りの家」であることと、「生ける神の家」であることは1つなのだ。
 テモテの教会でもそうだったが、どのキリスト教会でも同じように、やもめの方々を支援した。それだけでなく、祈りの人として、この女性たちに教会の様々なことを祈るように指導していたようだ。
 そのようにして、ただ助けられるだけでなく、社会的援助を受けながらも、霊的な援助でそれに応えることがこの女性たちの力となった。どのような立場、どのような人も、神に呼ばれて働く場が教会であることなのだ。


★ 2014年 7月20日(日) 説教題「全うな人と納豆な人」 ガラテヤの信徒への手紙5章2〜11節

 
 発想とは面白いものだ。ある時、なぜキリストは三日目に復活されたのかを話している人たちがいた。その日に復活したら本当に死んだのか分からない。次の日は安息日で、外を歩き回れないから復活しても誰も気づかない。
 知恵を絞った末、三日目には肉体が腐り始めている、でも、納豆のように腐っても大丈夫なんだ、「愛」があれば腐ることはなくて、良いものが発酵して墓を打ち破るくらいの力になったんだと。
 この説明は聖書や神学、いわゆる一般的な理解の範囲を出ているが、その自由な発想の中で、大切な神の愛の力には気付いてる点に目を向けたい。今日の聖書は、自由に生きることを語ろうとしている。
 聖書では、ガラテヤの信徒たちがユダヤ教の習慣を強制され、それに対して習慣的作法から自由になるように教えている。ユダヤ教の一派であったキリスト教がその律法を退け、愛による行為に目覚める重要な部分である。
割礼はユダヤ教徒にとって大切であり、神に選ばれた民の一員になる儀式であった。それをガラテヤの信徒たちは強制されたのだが、聖書はそのような通過儀礼を信仰には必要ないと考えた。
 割礼などの通過儀礼は世界中に点在する。レジャーの1つになったバンジージャンプも、元はある民族が大人になるための儀式として行っていたものだ。通過儀礼の役割は、なぜこうなっているのかを考えずにただそれを受け入れさせることであり、それが「大人」になることなのだ。
 それを振り返る時、子どもたちの疑問に答えることなく、ただ、社会の在り方を強要させているのではないかと反省する。大人になるのと同時に、幼いころの自由さを失っているとすれば、それは残念なことだ。
 どう自由を守ることが出来るか。英語「Free」(自由)の語源は、ギリシャ語「Freo」(愛)だと言われている。愛のない自由は成り立たないということ。そして、愛があれば自由に動くことができる。いわゆる全うな大人にではなく、粘り強い愛によって神の言葉を伝える人になりたい。


★ 2014年 7月13日(日) 説教題「点と天を結ぶ」 使徒言行録13章13〜25節

 
パウロの宣教旅行は、キリスト教徒への迫害によって困難だったであろうと想像するが、ピシディア州アンティオキアの町では受け入れられた。そこで、パウロはそこにいる人々の前で話をする機会を得た。
 パウロは、旧約聖書の時代を振り返り、イスラエル民族がエジプトから脱出して約束の地に住み、王国を建てた後に滅んでいく歴史を語った。しかし、預言者たちによって救世主が現れる希望もあった。その救世主こそがイエス様であり、新しい契約の時代に入ったことを人々に告げた。
 なぜ、パウロは歴史を振り返る必要があったのだろうか。長い歴史をどのように理解して、イエス様を信じることに至ったのだろうか。国家の滅亡、祭儀主義の形骸化、律法主義の限界に何を希望したのだろう。
 時間を振り返るとは、次のように言えるかもしれない。アメリカ人、スティーブン・ポール・ジョブズは、スマートフォンのiphoneで一躍有名になったが、その成功に至るまでには、簡単に語れない過去があった。
 ジョブズ氏は、母が学生の時に生まれ、すぐに養子となる。貧しい家庭でありながら大学に入学するも、両親に苦労をかけつつ、何の目的もない学生生活を嫌って退学する。その後、彼は自分の感じるままに生き、成功と失敗、出会いと裏切りを繰り返してきた人生であった。
 その彼は言う。人生とは「点と点を結ぶ」ことにある。今は何のためになるか分からない出来事、汚点に見えるような失敗が、後になってつながって「線」のように見えるのだと。
 パウロに話を戻すが、彼も人生を振り返って思った。キリスト教徒を迫害したこと、それによって犠牲者が出たこと、そして、今、自分が赦されて生きていること。それらは点と点を結ぶようにして、自分のために良かったと。
 私たち人間の目には、汚点のように見えることも、神さまの計画によって、最後には全てが驚くような形で結果が出るのだ。だからこそ、過去の1つ1つを「天」に結び付けて、神様が良いようにしてくださるように信じたい。

★ 2014年 7月6日(日) 説教題「信頼と依存との間」 使徒言行録13章1〜12節


 サウロとパウロという名前は同一人物を指している。サウロはヘブライ語に由来し、パウロはラテン語に由来すると言われている。いずれにせよ、同じ人物の名前が変わるということは、それ以上の変化がここにある。
 使徒言行録ではこの13章が1つの転機となる。これまではペトロたち、イエスの弟子たち中心の物語だったが、イエスとは直接会ったことのないパウロに物語の重点は変わる。
 それだけでなく、キリスト教が語られる場所も変わってくる。ペトロたちはエルサレムを中心に動いていたが、パウロは、旅行しながら地中海周辺を飛び回る。そして、13章はその旅行の始まりでもあった。
 そう考えると、サウロからパウロに名前が変化することは、ユダヤ教世界から外の地域により広く神の言葉が伝えられることであり、パウロが本当の自分の役割を果たすことでもある。
 最近では、「自分探しの旅」が世代を渡って流行になっている。自分のやりたいことが分からず家から出ない引きこもりとは対照的に、自分を探して遠く海外に行き、長い時間を過ごす「外ごもり」とも言われている。
 「オズの魔法使い」の物語は、その自分探しへの答えかもしれない。主人公と共に旅をするのは、脳みそのないカカシ、心を入れ忘れたブリキ人形、勇気のないライオン。この三者は魔法使いに助けてもらおうと考えていたが、様々な問題を前にして、実はその知恵や心、勇気が自分の中にあったことを知るのだ。
 パウロも旅の中で自分を見つけた。それは遠い土地にあったのではなく、実は自分の中にあったことを知らなかっただけである。そして、神さまの光を受けた時に、自分の中にある「パウロ」として生きる道を見つけたのだ。
 私たちも同じかもしれない。自分には足りない部分を感じて一歩を踏み出せない時がある。でも、確かに私たちは神さまによって作られていて、大切なものは全部、ここにあることを知る、その時を待っている。