説教要約(6月)



★ 2014年 6月29日(日) 説教題「とらわれない心」 使徒言行録16章16〜24節

 パウロとシラスの二人は、地中海周辺でキリスト教の布教活動をしていた。当時、キリスト教を伝えることは危険に満ちていたことを聖書の物語は教えている。特にパウロは何度も逮捕され、牢獄に入れられていた。
 強引な布教活動だったのかと想像してしまうが、占い師の女奴隷に付きまとわれて困ってしまうことが問題の始まりだった。数少ないキリスト者を奇異な目で見る人もいれば、その生き方に憧れる人もいたようである。
 この女奴隷から占いの霊を取り去ると、その女性は自由になったのか、話にはもう出てこないが、代わりに占いでお金を稼がせていた主人がやってきて、パウロたちを訴え、牢に入れてしまったのだ。
 この物語はフィリピの町に入った時だとされており、パウロが書いたと言われるフィリピの信徒への手紙を読むと、獄中での心境を描いている。この手紙の時には、また、違った理由で牢に入っていたのだが、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」と、自分の状況を振り返っている。
 「福音の前進」とは、前向きな言葉だ。自分は牢の中で何もできず、誰も助けることが出来なくても、福音は常に前進しているのだ、という気持ちを彼は持っていた。牢にいながらも、心は外にあり、キリスト教が広がる思いに強く励まされていたのだ。
 そのような生き方だったからこそ、お金を稼ぐだけの関係で生きている女奴隷は、うらやましく思ったのだろう。何にもとらわれず、ただ、信じるものに従っていく自由さを、パウロの姿に見たのである。
 物語は面白い展開をする。女奴隷は自由になり、パウロたちは牢獄に入る。しかし、パウロは福音が前進するのを知っている。それは、自由になったこの女性が、必ず、他に苦しむ人々にも、とらわれずに生きる心を分け与えると信じているからなのだ。誰も、神さまの言葉を縛ることはできないし、それによって生きる人から、奪うことも出来ないのだ。



★ 2014年 6月22日(日) 説教題「W.W.J.D」 使徒言行録4章13〜31節

 「W.W.J.D」とは、「What Would Jesus Do?」の略である。平易な日本語にするならば、「イエスさまならどうするだろう?」という呼びかけである。発言や行動に迷いがある時、この言葉は私たちに何を見せるのだろうか。
 ペトロとヨハネは、まるで裁判にかけられているかのように、当時の社会では有力な人々の前で尋問を受けた。それは、足の不自由な人を神さまの力によっていやし、イエス・キリストにこそ救いがあると語ったからである。
 尋問している反イエス派は、当時、権力をもって支配する人々だったが、ペトロとヨハネは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。」と言い、脅迫や圧力によって信仰の自由を求めたのだった。
 多くの人々と同様、ペトロとヨハネも少し脅しをすれば黙り込むと、力を持つ人々は思っていただろう。しかし、「無学で普通の人」と評価される二人は、大勢に囲まれる不安も、知恵や力を持つ人への恐れもなかった。
 無学で普通の人が、神さまの働きに必要である。これが聖書のメッセージである。能力を持つ人が何をしても驚かないが、無力な人が予想を超えて発揮する時、人にではない、神さまからの助けを見える形で伝えるのだ。
 聖書では二人が聖霊の助けによって、「大胆に」行動することができたと伝えている。聖霊の助けは、人を「大胆に」生かすのだ。この「大胆に」は、ギリシャ語で「パレーシア」と訳されている。
 広島書学院大学の澤村雅史先生は、ヨハネの手紙第一にある「パレーシア」について、簡単に言えば、現在において終末に生きる姿だと言う。それは、終末という「死」を目の前にしながら、明日が必ずあるわけでない。だから、今日を大切に生きようとする思いだろう。
 そして、キリストこそ、十字架を前にして明日がないとしても、今、目の前にいる人に真剣に接したのだ。さて、私たちはどうか。「イエスさまならどうするだろう?」と声がする時、大胆に気持ちを表現したい。

★ 2014年 6月15日(日) 説教題「恐れから解き放つ」 ローマの信徒への手紙8章12〜17節

 詩人、八木重吉は「あかんぼもよびな」で、赤ん坊が泣く姿と神に願う人間の姿を重ねている。赤ん坊はただ泣くことしか出来ないが、それを貫くことで大人たちに必要を訴えている。一心に求める気持ちをそこに学ぶ。
 祈りは一種の叫びになることもある。何を願えばよいのか、どのような言葉で表現できるのか、言葉を持ち合わせず神さまの前に立つことがある。その時言葉にならない思いが涙と沈黙の中で何度も反響するのだ。
 ガーナに滞在したことのある牧師から聞いた話だが、昔、イギリスが奴隷貿易のために作ったケープ・コースト城という要塞があった。その地下には奴隷を捕えるための牢屋があり、貿易船に乗る時を待っていた。
 牢屋の中で他国に行く恐怖や解放を求める叫びがあったと想像できるが、何よりも驚くことは、その牢屋の上には広い礼拝所があり、弱く貧しい人々がいる牢屋の上で、豊かな人々が神を礼拝していた事実である。
 この出来事は過去のことだが、過去の出来事ではない。資本主義社会の中で生きる社会全体が、ケープ・コースト城のような構造になっているのだ。貧しさが多くの人々を苦しめ、その上で少数が豊かに暮らすことが出来る。
 そのような状況を知った上でなお、私の祈りは、神さまの助けを求める人々と共にあるだろうかと自問する。または、私の祈りから弱い人々が取り除かれ関心の外になっていないだろうかと。
 分かち合うことが損であるかのように考える社会の中で、自分の利益を守ることが正義になっている。分け合うことが奪われることのように思え、他者を恐れる心理が見えないところで働いている。
 分かち合うことは豊かさである。私たちの世界にあるものが有限であるかぎり、独り勝ちは孤独であり、究極の貧しさに向かうのだ。十字架は教えている。良いことだけではなく、苦しみや痛みを分かち合う時にこそ、他者への恐れを越えて信頼が生まれ、共に生きる知恵を得るのだと。

 

★ 2014年 6月 8日(日) 説教題「大きな木の下で」 マルコによる福音書 4章26〜34節

 今日は聖霊降臨日。一同に集まっていた弟子たちに不思議な力が与えられた。先頭に立って導いておられたイエスさまを失った弟子たちに、神の言葉を語る勇気が与えられた。
 その時、聖霊の力によって様々な言語を通して神について語ったと言われている。言語は人間にとって互いを知る大切なものであると同時に、その違いによって分裂したり、互いを敵視したりする不安材料にもなる。
 旧約聖書は、言語の違いを人間の罪が起こした神の罰であると考えている。人間たちが協力して天に届く高い塔を作ったからである。神のようになろうとする人間の姿を見て、言語を狂わせたのがバベルの塔の物語であった。
 私たちに違いがあることは事実である。だからこそ、言語によって互いを知り、思いを伝えるのだろう。しかし、その違いを恐れる時に、受け入れられない恐怖から偏見や差別が生まれるのだ。
 違いを恐れ、民族が互いに争う姿に対して、イエスさまは神の国こそは大きな木のようだと言われた。始まりは小さな種であるが、成長して大きくなれば、多くの生命を支える中心になる。
 種とは神の教えであり、それを学ぶ人間が1つになって大きな木のようなつながりを作り出すことを願っている。聖霊はそれを生み出す力であり、相手を信頼して、思いが必ず「伝わる」と信じさせるものだ。
 歴史を振り返れば、キリスト教は小さな種のような集団から始まった。世界の片隅に捨てられたような存在であり、神の愛という見えない希望から少しずつ大きくなり、世界に広がりつつある。
 私たちは、神の国という大きな木の下に集う命である。または、命は実に1つであることを教えられている。互いの違いを理解し、それを組み合わせながら共に生きる。教会もまた、大きな木として一人一人を招いている。

★ 2014年 6月 1日(日) 説教題「与えられたもの」 ヨハネによる福音書 17章1〜13節

 ペンテコステ、聖霊降臨日を前にして、昇天日を迎えている。福音書によれば、イエスさまは復活して後、40日間も弟子たちに現れて元気づけられたとあり、40日後、山の上で最後の別れをされている。
 弟子たちと別れることは、二度あったと言える。第一は十字架で死なれた時であり、第二は復活して天に昇られた時である。今日の箇所は、その別れを思って祈られた弟子たちへの思いが残されている。
 この祈りは、十字架の死の前であるが、その中では自分の命のためではなく、残される弟子たちが守られるように祈っておられる。私はこの場面は、子離れする両親が胸を熱くしてわが子を見る心境に近いと思っている。
 まだまだ十分に成長していない弟子たちを残して、神の国で待つイエスさまは、その心配な弟子たちのために祈り、強められることを願ってくださった。この祈りは、当時の弟子たちだけでなく、私たちも含まれる。
 そして、祈りの中で最も目に留まるのは、「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。」(7節)の言葉だ。
 これは、十字架という最期を前にしてこそ、その意味が分かるのかもしれない。死によってすべてを失う。持ち物、家、家族、そして、命までもすべては神のものであり、その手に返す時があるという確信である。
 この「与えられたもの」に囲まれて生きているという教えは、失う時に知る必要があるだけでなく、多くの人々と関係しながら生きるこの社会に欠けた理解である。
 わたしの物はわたしの物、あなたの物もわたしの物と言わずにはおれない社会の中でこそ、この聖書の言葉は力を発揮する。人間が持って生まれた物はないし、持って死んでいける物は1つもないからである。何よりも、この命こそ、与えられたものであると知る時、その尊さが分かるのである。