説教要約(5月)         



★ 2014年5月25日(日) 説教題「悲しみを喜びに」 ヨハネによる福音書 16章12〜24節

 物事には、出来事そのものである事実の部分と、それを理解しようとする人間の心理、それを真実と言うことも出来る部分がある。歴史が良い例だが、事実は1つしかなくても、それを読む人間の数だけ歴史観が存在する。
 そうであれば、今日のテーマは、悲しみという事実が、喜びという真実に変わると言える。人間には事実を完全に知ることが出来ないからこそ、様々な視点から新たに見える真実が出てくるとも考えられる。
 聖書は悲しみが喜びに変わることを妊婦にたとえている。出産という激痛があるにもかかわらず、それを望むのは、新しい命を喜ぶからである。新しい命との出会いによって、激痛は既に忘れ去られる。
 それは全ての人間に当てはまる考えではないかもしれないが、重要なことは、生きている命はすべて、悲しみを喜びに変える希望によって生み出されており、人間は生まれながらにして悲しみを喜びにする力に守られている。
 俳優の松本幸四郎さんは言う。「我々俳優は悲しいから踊るんです。悲しみを悲しみのままにするんじゃなくて、苦しみを苦しみのままに終わらせるんじゃなくて、苦しみを勇気に、悲しみを希望に変えてさしあげるのが我々俳優だと思うんですね。」
 松本さんはこの言葉を「ラ・マンチャの男」(「ドン・キホーテ」ミュージカル劇)の舞台挨拶でされていた。ドン・キホーテとは、牢獄内で囚人たちと演じた誇り高き騎士の物語である。
 つまり、牢獄にいる今の自分は悲しみに包まれているが、それでも、騎士という誇らしく、喜びにあふれる生き方を演じてこそ、人間は変わりゆくものだと、松本さんは物語から学んだのかもしれない。
 私たちも似ている部分がある。世俗という牢獄にいながら、クリスチャンというあるべき姿が求められる。今の姿はまだ悲しみであっても、キリストの弟子として、ふさわしくあるように演じながら、喜びに近づきたい。


★ 2014年5月18日(日) 説教題「石ころ、転んで」 ペトロの手紙T 2章1〜10節

 「石」という言葉は重みをもって語られている。ペトロの手紙として書かれている点を思えば、彼の名ペトロが「岩、石」を意味しているからだ。私たちが触れる石の重さ、固さ、冷たさに例えられている何かがある。
 ペトロは福音書からすれば、一途で、意志が強い人だった。イエスさまが十字架にかかると信じず、そうなれば弟子として一緒に死ぬ覚悟もあっただろう。それは弟子として誇りだった。その頑固さが「岩」というあだ名に現れている。
 ある意味で「石」は、聖書の人間理解の1つなのだ。頑として他人の話を聞き入れない人間の姿なのだろう。また、その固さによって意図せずに周りを傷つけたり、痛めつけたりしている姿なのかもしれない。
 旧約聖書では、律法に違反した者を石打ちによって死刑にする方法がある。そこから言えば、石は怒りのつぶてであり、感情の塊であり、罪に対して赦しの余地を与えない厳しさを意味するものだ。
 ペトロも以前は、その石のように固い意志によって正義を行うつもりであったが、結果、ペトロはイエスさまを裏切った。ペトロという呼び名は、彼を責めるものになり、意に反してイエスさまを打つ石になってしまった。
 それでもなお、ペトロの手紙で、「生きた石」という言葉が使われていることに目を留めたい。神の言葉を受け入れない固さを持ち、神の子を打つ石となった罪なる人間が、清められて神の働きのために用いられる時がある。
 石が生きて、勝手に転がることはない。誰かに蹴り飛ばされたり、大きな力によって吹き飛ばされたりしてあちらこちらに転がる。その1つ1つの出来事の中に神さまを信じ、私たちが転がる先で神さまの働きをなすのだと理解する時、ペトロのように、生きた石として教会の一部となって支えることが出来る。転んで倒れこむのではなく、転がってでも前に進みたい。

★ 2014年5月11日(日) 説教題「かか・はは・まま」 ヨハネによる福音書 19章25〜27節

 母の日を迎えた。年を重ね、家族の形は変われど、親子である絆は変わらない。子は子であり、母は母なのだ。私たちのイエス・キリストでさえ、母マリヤによって育てられ、母への気遣いを最期まで持っておられた。
 少し前に「トイレの神さま」という歌が流行した。祖母を亡くした孫娘が、生前を思い出しながら、自分を磨くように、トイレを磨いて神さまに喜ばれるようにと残した言葉を切なく歌う。まるで母のように慕って。
 言うまでもなく、私たちの周りで家族の形は大きく変わった。母が子を育てる環境が変わり、母に代わるものが多様に準備されている。そして、先ほどの歌のように私たちは様々なものに「母なるもの」を求めている。
 スイス生まれの看護婦・精神分析者のG・シュビングは、「母なるもの」の特徴として、@相手の身になって感じること、A相手の必要を知ること、B必要なものを備えて待つことと挙げている。
 カトリック教会では、今日も父なる神と共に母なるマリアを大切にしながら、「母なる教会」として信じ求める人々を育んでいくことを認識しているが、宗教改革後、そこを離れたプロテスタント各派には、「母なるもの」が欠けてしまっているという反省も必要なのかもしれない。
 今日の聖書物語では、十字架上で死を待つイエスさまが、母マリアを弟子たちに託す言葉が残されている。最後まで面倒を見ることの叶わない無念さと、母への思いがそこにあるが、それだけではないだろう。
 人間の子であれば、いつか母と別れるのだ。その上で、私たちは常に「母なるもの」を求める存在である。だからこそ、イエス・キリストが母マリアを弟子たちに任せたのは、母のためだけでなく、弟子たちのためでもある。
 多くの人々が失い、乞い求める「母なるもの」が私たちの教会であり、肉親の母を思い出す時とともに、全てを包み込む母のような愛を、私たちはこの世界に生き、神さまから頂いているのだ。


★ 2014年5月4日(日) 説教題「1つの群れ」 ヨハネによる福音書 10章7〜18節

 パレスチナ地方では、羊と羊飼いの例えは親近感ある日常の一部であり、旧約聖書の時代から、人間と神さまの関係を例える時に何度も使われている。羊の弱さは人間の弱さであり、羊飼いの心遣いは神さまの思いと重なる。
 羊が群れになって進んで行く光景をよく目にする。どうやら、羊はかなりの近眼であり、先が見えない不安から互いに近づいているらしい。牙も爪もなく、危険を察知する視野も狭い羊には、それを導く羊飼いは必要なものだ。
 羊飼いが安全に羊を守るために、夜は囲いの中に群れを導く。都市部では建物に付属して囲いがあるそうだが、一歩外に行くと安全な場所は、洞窟やすり鉢状の地形を利用するしかない。
 「わたしは羊の門である」。その意味は、野外で夜を過ごす時に出入り口に門や扉のない場所があれば、羊飼いがそこに横になって夜の晩をする。そうして、夜の間、命をかけて羊を守る姿を「門」と譬えているのだ。
 「羊の門」とは、そのような羊飼いたちの決死の覚悟によって、羊たちが守られることであり、それは、命をかけて人を救うキリストの姿である。何よりも、キリストを信じる以外に、救いの入口はないことを意味している。
 救いの入口はキリスト教以外にない。しかし、他の意見もある。宗教は登山のようであり、入口は様々だが神さまという真実の頂点を目指す。そのような意見に対して、なぜ、キリスト教なのかを答える必要がある。
 簡単に言えば、キリスト教の中心は十字架による犠牲である。そして、この犠牲という考えは受け入れられにくい。全能である神がなぜ、十字架を必要としたのか、痛みも苦しみもなく救うことが出来ると思うからだ。
 しかし、犠牲の前で命の重さを私たちは知る。そして、何よりも、失うことによってしか、得ることの出来ないことがあると、十字架は教えているように思う。その大切なことを、神さま自らが神の子を失うことによって実現する。得たものを失う時があるように、失う時に得る。それが希望なのだ。