説教要約(4月)   


★ 2014年4月27日(日) 説教題「時効と赦し」 ヨハネによる福音書 20章19〜23節

 悪いことをすれば怒られる。だが、見つからなかった悪いことは誰に怒られるのだろうか。犯罪には時効が存在するが、ずっと隠してきたあの罪悪感に終わりはあるのだろうか。
 イエスさまが復活したと聞いてもなお、弟子たちは恐れて家に鍵をして隠れていた。まず、イエスさまを十字架にかけたユダヤ人たちを恐れたこともあるが復活したイエスさまに会うことにも恐れたのだろう。
 短い期間だったが、師弟関係を結んで村々を回ってきた彼らだが、いざ、ユダの裏切りによってイエスさまが逮捕されると、全員が逃亡した。最後に見たイエスさまの顔を思い出す度に、罪悪感は増したことだろう。
 「子どもと悪」(著 河合隼雄)に谷川俊太郎が寄せた詩がある。その一節には、「わたしはひとのこころをぬすんだ ぬすんだこともきづかずに へやにかぎはかけないけど わたしはこころにかぎをかける」とある。
 これはまるで、先ほどの弟子たちの内面を言い表したかのような言葉である。イエスさまの優しさを受けながら、それに答えることができずに良い所だけを盗んでは、心に鍵をして閉じこもってしまった。
 復活されたイエスさまは、そのような心にやってきて言う。「平和があるように」と。これまでの失敗や過ちなど全く知らないかのように、いつものように挨拶をしてくださる。
 平和があるようにという挨拶はその後に続く。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」つまり、この挨拶の意味は赦したということ。
 何気ない普段の挨拶の中で、すでに相手を赦している。それは、その人の中にずっとくすぶっている罪悪感をきれいに洗い落とすためである。誰にも赦されずに残ったままになった罪を、赦して軽くしてくださる。その配慮に愛を感じる。


★ 2014年4月20日(日) 説教題「始めよう、あなたの物語」 マルコによる福音書 16章1〜8節

 主の復活、おめでとう。キリストの墓を前にして、私たちは深い悲しみを乗り越え、青い空の彼方に新しい希望を得た。夜が朝になり、終わりが始まりに変わり、恐れが歓喜に変わる。それが復活の出来事だった。
 日曜の朝早く、イエスさまに出会った婦人たちは墓に急いだ。イエスさまの遺体に、当時の習慣どおり油を塗るために。そこで御使いたちに出会い、驚いた彼女らは恐ろしさのあまり、逃げ帰ってしまった。
 9節から続く、復活のイエスさまに会う話は、後の時代に追加されたものだと言われている。そうであれば、この福音書は墓に来た婦人たちが恐れて帰る場面で終わることになる。
 大切なのは、その時に「ガリラヤに行く」という目的が御使いによって与えられていること。ガリラヤはイエスさまが伝道を始めた拠点であり、弟子たちと出会った最初の地である。
 物語の最後まできて、福音書はどう終わるのかを考えた後、「終わらない」という結論を出した。ガリラヤに行くということは振り出しに戻ることであり、墓で終わる命ではなく、復活に向かう命を生き始めるようにと。
 死は避けられないが、死ねば終わりという生き方をやめることであって、死に支配される人生から、死を支配する人生に変わることなのだ。空になった墓を前にして、ガリラヤに戻る時、その心に既にイエスさまがおられる。
 信じることは、この福音書のように何度も繰り返す物語のようだ。何度も何度も疑い、キリストと離れる体験を通して、生きる原点へと帰って行く作業なのだと思う。
 ガリラヤへ行け。新しいスタート地点に立って、今度はあなたの物語を始めようと語っている。あなたの人生にも神さまは出会い、慰め、癒し、元気づけてくださる。その一歩一歩が、あなただけの福音書になるのだ。

★ 2014年4月13日(日) 説教題「春眠、杯を覚えず」 マルコによる福音書 14章32〜42節

 春の日差しを受けて、温かな季節になると午後にうとうと居眠りをすることも。孟浩然の漢詩に、春眠暁を覚えずという一節がある。本来は春の眠りが安らかであることを喜んでいるのだが、最近では、遅くまで眠っていることを揶揄する表現になりつつある。
 イエスさまが悲しみながら祈っているそばで、その弟子たちも眠っていた。ゲツセマネという場所は、「油しぼり」という意味で、おそらくオリーブの実をしぼって油を作った場所だろう。イエスさまも心を砕き、思いをしぼり出して祈っておられたことと地名とが重なる。
 弟子たちは眠かったのだが、それは疲れていたからだろうか。眠りとは、肉体の疲労回復だけではなく、出来事への関心の無さも意味している。興味がなかったり、関心がない場合に眠気を感じることがあるように。
 死を前にして祈る姿を見ながら、人間は無関心にも眠くなることがある。それは、悩みや苦しみを理解されずに孤独になることでもある。一人で激しい祈りをやり通されたイエスさまの姿は、その孤独を訴えている。
 眠る弟子たちの姿を見て、「心は燃えているが、肉体は弱い」と語られた思いには、孤独にされた側の恨みにも聞こえる。どれほど思いがあっても、体がついてこないことへの限界もまた、そこにある。
 なぜ、神の子イエス・キリストがここまで苦しみながら祈る姿を、聖書は書き残したのだろうか。立派に死を受け入れるイエスと、その祈りを目覚めて支える賢い弟子の物語に書き換えることも出来たのだろうが。
 「肉体は弱い」、それは決して悪いことではない。人の子としても生まれ、肉体の限界を知ったイエスさまの姿を描くのは、肉体が弱いことを私たちに知らせるためである。そして、人間の限界があるからこそ、神さまの働きが生まれる場所でもあるのだ。
 苦しみという杯を、それも私たちからしぼり取られた苦しみの杯を、キリストはその身に受けてくださった。弱さを知る謙遜である。

 
★ 2014年4月6日(日) 説教題「代わってあげたい」 マルコによる福音書 10章32〜45節

 今年は例年より早い桜の開花が全国各地で見られている。桜(さくら)の由来はいくつかあるそうだが、民俗学的には、「サ」は田の神を意味し、「クラ」は座(くら)である。田の神さまが座って田植えをご覧になっていると、桜の花を見ながら昔の人は働いていたのだろう。
 聖書では、弟子のヤコブとヨハネがいつか神の国が興る時に、自分たちをイエスさまの左右に置いてほしいと願っている。彼らは、「どこに座るか」ということがとても気になっていたらしい。
 弟子たちが神の国と聞いて想像したのは、王国のようなものだったのか。一番高い席にイエスさまが着き、その左右を重臣たちが固め、そして、その他の人々がかしずくような、そのように見える。
 もし、教会にふさわしい席を作るとしたら、私は「アーサー王と円卓の騎士」に出てくる「円卓」を考えるだろう。円卓には、上座も下座もなく、対等な会話が可能である。王も騎士も1つになることができる。
 「円卓」は、想像の産物ではない。20世紀後半に起きた東欧革命、旧ソ連の支配から独立した国々の口火を切ったポーランドでは、政府側と反政府側との話し合いで、実際に円卓が使われたからである。
 「円卓」を前にして、右や左に座りたいという願いは意味のないものになる。それよりは、どれだけの人がその席にたどり着くことが出来るのかが問題になってくる。その円をどれだけ大きくできるかである。
 そして、対等な話し合いとは、現代で理解されるような人権や相互理解といったものを基本とするのではなく、丸い卓上の中心を支えているのが、その下にある一本の十字架であるという確信なのだ。
 十字架はゴルゴだの丘、よく見える高い所に立てられた。同時に、命と生きる意味を支える柱として最も低い所に立っている。十字架は見ている。どこに座るかではなく、どうすればみんなが仲良く座れるかを。