説教要約(3月)


★2014年 3月30日(日) 説教題「その時を待っている」 マルコによる福音書 9章2〜13節

 3月27日、その時は来た。袴田事件の容疑者とされた袴田巌さんが、長い拘置期間を乗り越えて釈放された。強要による自白、不可解な証拠品、それらによる死刑判決とその後の抗議については御存じだろう。
 去る一年ほどの前だが、国際連合による拷問禁止委員会から日本は指摘を受けていた。物的証拠よりも自白を重んじる姿勢は「中世の名残だ」と言われ、それに対して外務省の人権人道担当大使が「我々は、この分野(人権問題)において最も進んだ国家である」と答えて失笑を買っていた。
 この拷問禁止委員会にかけられたのは、2007年から2回目であり、最近としては多いと感じる。この契機となったのは、2007年に袴田事件の死刑判決を下した一人の裁判官がある告白をしたことが関係している。
 2007年、元裁判官の熊本典道氏は袴田事件について口を開いた。当時、審議を担当する中で、証拠品への不信感や捜査に対する疑問を持ち、無罪判決文まで用意していたが、他の先輩裁判官に説得されて死刑判決を下した思いを告白した。
 聖書では、イエスさま、モーセ、エリヤが山の上で出会うことになる。この山という場所は、モーセとエリヤにとって苦々しい記憶を思い出させる。モーセはシナイ山で神と出会ったが、同じシナイ山で怒りから十戒の板を破壊する。自分を待っているはずの人々が他の神を信じ、裏切ったからだ。
 エリヤの場合は、命を狙われてシナイ山の洞穴に逃げ込む。神の預言者として働いた報いがこれなのかと失意と絶望に暮れる。外では激しい風が吹き、地震が起こり、火が広がったが、エリヤには関心がなかった。ただ、その後に静かにささやく声を聞いて彼は洞穴を出て山の上に上っていく。
 エリヤであれ、熊本氏であれ、私たちは深い思いの中に真実を持っている。それを告白させるのは、強い力ではなく、神のささやく声であることを知る。熊本氏に告白する時があり、それによって袴田氏が解放される時も来た。二人は既にキリスト者となっているが、正に山の上でイエスさまに会うような面持ちなのかもしれない。

★2014年 3月23日(日) 説教題「受け止められない真実」 マルコによる福音書 8章27〜34節

 精神分裂症や多重人格などの言葉が世間一般に浸透してきた。病気ではなくても、病的なほどに矛盾する気持ちに苦しみ、その葛藤に耐えられない日々を過ごすこともあるだろう。まるで、ペトロのように。
 ここで弟子ペトロはイエスさまのことを「メシア」と答えた。それは救世主という意味である。周りから様々な評価を受けるイエスさまについて、正しく理解していたといえる。
 しかし、同時に過ちも犯した。イエスさまが苦しんで後に十字架にかかることを受け入れることができなかったのだ。彼のメシア像に、そのような苦しむ姿は必要なく、希望した世界に代償はいらなかった。
 人が物事を進めていく場合に、希望がいることは分かるだろう。だからこそ、十字架という、終わりや死を意味するものを受け止められない姿は理解できる。しかし、そこに落とし穴もある。
 十字架を受け入れて告白するイエスさまを受け止められない。それがペトロの心境だった。そして、頑張れや大丈夫だという言葉によってそれを打ち消したいと願っていたのだろう。
 そのような希望の前に十字架は立つ。そもそも「メシア」という言葉そのものにも、現実から逃亡したい思いはあったのかもしれない。だが、イエスさまは、希望のど真ん中に十字架というものを置いておられた。
 希望的観測を止めるために十字架という痛みはあり、そこに立ち止まって自分を振り返ることを求められている。現実の自分はまさに十字架にかかったイエスであることを知るために。
 受け止められない自分を見せるように、キリストの十字架は苦々しく目の前に立っている。でも、そこから生きることを始めようと祈るときに、命の神が力を与えてくださる。神さまの計画より先走って考えるからこそ、十字架の後に従う信頼を求めていきたい。


★2014年 3月16日(日) 説教題「壮大な内輪もめ」 マルコによる福音書 3章20〜27節

 「和を以て貴しとなす」は有名だが、果たしてその精神が今の日本にどれほど残っているのかは定かではないだろう。多くの組織がそうであるように、集団の中にいて、主導権とその争いから逃れることはできない。
 聖書では、ベルゼブル論争という題が付けられている。ベルゼブルとは、「蠅の王」という意味である。当時、病気は人間の中に悪い存在が入り込んで体に悪さをすると考えられていた。
 だからこそ、衛生面が悪くて発生する蠅は病気をもたらす使者であり、「蠅の王」とは病気をもたらす悪い霊、存在と理解されていた。病気をもたらすのだから、それを取ることも出来ると考えたのか、病気をイエスさまに対しては、その名を使って働きを無にするような発言が出たのだ。
 蠅の中に王がいるという発想こそ、指導権にこだわる人々の考えそうなことだが、何よりも、エリート意識の高い律法学者たちにとって、自分よりも人気のある田舎出身のイエスさまをねたむ気持ちが背後にある。
 ねたむ気持ちから、人々とは全く反対の意見を出したことは理解できるが、それよりも、イエスさまの家族がやってきていることにも注目したい。家族の者は周りの噂を聞いて、「気が変になっている」と思っているようだ。
 「気が変になっている」とは、原語のギリシャ語では、「外に立つ」という意味にも訳される言葉である。私たちの理解の外に立つということだろう。または、家族という一線を越えてしまったということなのかもしれない。
 家を出て、病気のせいで村八分されたような人々と住むイエスさま。律法学者たちが敵意をむき出しに論争を始めるのをよそ目に、議論の外にいる弱い人々の立場から、意味のない議論を正そうとしておられる。
 1つしかない椅子に座ろうと争うかのように、人の目は指導権を取ることに急いでいる。キリストはいつも、外から立って見ておられる。最も弱い立場から。その姿から、日々の我が身を省みたい。

 

★2014年 3月9日(日) 説教題「願いのスキ魔」 マタイによる福音書 4章1〜11節

 悪魔の誘惑をイエスさまが受けたという話は、単なる幻覚なのか、実話なのか。だが、愛という響きの良い言葉の裏に潜む闇を、人間関係の中に見つける時、確かに悪魔がささやいたような出来事が起こる。
 「神の子ならば」というのは、1つ前の段落でイエスさまが洗礼を受けた際に天から「これはわたしの愛する子」を引き合いにして、では、神の子ならばそれを証明して見せよという企みがここにある。
 1つ目の誘惑、「神の子ならば」という条件付けは至るところにある。「良い子なら」「良い妻なら」「良い夫なら」。そのような条件を付けて、あれをするべきだ、これをするべきだと相手を縛りつけてしまうことがよくある。
 また、2つ目の誘惑は、私たちが目に見えないものを疑い、「試そうとする」罠にかかることを教えている。神の存在だけでなく、信頼、約束、愛というものを時に試し、相手を深く傷つけてしまう。
 3つ目の誘惑は、「服従を求める」ことである。愛は受けるもの、何でも願いを聞くものだと思い始めれば、愛の奴隷を作り出すことになる。これもまた、ゆがんだ人間関係である。
 このように、愛されているのか、見えない相手の思いに疑念を持つ時、ふと、その傍らに闇の感情が生まれて、相手に条件を付けたり、試したり、服従を求めてしまうのだろう。
 そのような関係から自由になるため、神の愛を受けて生きる。愛とは、代わりの何かを求めたり、相手を縛ったり、裏切りを恐れたりするものではないことを、この誘惑によってイエスさまは私たちに伝えている。

 

★2014年 3月2日(日) 説教題「なぜ怖がるのか」 マルコによる福音書 4章35〜41節

 イエスさまと弟子たちを乗せた舟が嵐に遭ったという話は、他の福音書でも描かれている。先に今回はマタイによる福音書を中心に考えることをお許し頂きたい。
 福音書には、時間の二重性があることを忘れてはいけない。物語が実際に起きた時間(およそ紀元30年ごろ)と、その物語を福音書の著者が書いた時間(およそ紀元70、80年ごろ)であり、最初の出来事を大切にしながらも、新しい見方でそれを理解しようとするのだ。
 例えば、「舟」という言葉は教会として理解され、シンボルとして使われた時代もあった。また、「嵐」とは福音書が書かれた時代には、ユダヤ教による迫害から、ユダヤ教の会堂から追い出されて異邦人への宣教を始め、異邦人との相互理解に苦しんだ様子を表している。
 そのような現実と向かい合いながら、弟子たちが難破した物語を振り返って、教会が乗り越えなければならない迫害という「向かい風」と、信仰を放棄しようかと揺れる「大波」の中で、後世へのメッセージを残す。
 「嵐」(マルコ福音書では『激しい突風』)と訳されている言葉は、本来は「大きな地震」を意味するものであった。地震によって湖に波や風が起こったと理解したのかもしれない。そして、その「大きな地震」が再び出てくるのは、イエス・キリストの十字架の場面である。(マタイ福音書27:54)
 もし、キリストの十字架を下地に物語が語られているのなら、イエスさまが眠っていたことも、疲労や睡眠といった意味ではなく、「復活を待つ死」を「眠り」として理解されるだろう。
 「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」この言葉は、教会の危機という嵐に遭った弟子たちを責めるために主は復活されたのだろうか。「薄い」と意訳された言葉の意味は、「小さい」である。ならば、「なぜ恐れるのか。小さき信仰者よ」、「自分が小さいことを恐れるな」と励ましておられるように思える。そして、常に「大丈夫だ」という安心があるからこそ、舟である教会は沈まずに目的へ着くのである。