説教要約(2月)


★2014年 2月23日(日) 説教題「最も重要な掟」 マタイによる福音書 22章34〜40節

 人生の目的は何か。わたしたちは何のために生まれてきたのか。その答えがここにある。それは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する」ため。そして、「隣人を自分のように愛する」ためである。ところで、「愛する」とはどういうことか。コリントの信徒への手紙T13章4〜7節には、愛とは何かが記されている。ここには、「相手を好きになれ」とは書かれていない。愛、それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7章12節)ということである。
 わたしたちは愛する心を持っている。しかし、それを具体的にどう表していいかが分からないでいる。それは例えば、スキンシップ、言葉をかける、話を聞く、誕生日を祝う、絵本を読んであげる、一緒に食べる、一緒に遊ぶである。
 問題は、頭でわかっていてもそれを行うエネルギーがないということである。そのために、例えば、夫婦間で力を与え合うことが必要である。夫は妻の話を聞こう。それは妻を慰める。気の利いたアドバイスをしようとか思わず、その思いに共感しよう。妻は夫を具体的に褒めよう。それは夫を力づける。互いにスキンシップ、言葉をかける、話を聞く、誕生日を祝う、一緒に映画などを楽しむ、一緒に食べる、一緒に遊ぶということを心がけよう。しかし、現実はなかなかむつかしい。お互いにエネルギーが枯渇している。
 幸い、わたしたちは神さまからエネルギーをもらうことができる。「わたしの目にあなたは価高く尊い」(イザヤ書43章4節)。この御言葉はその独り子をお与えになった神さまの愛を示している。この御言葉を繰り返し自分に言い聞かせよう。そうすることで自分を愛することができるようになる。それが力となり、隣人を愛することができるようになる。そのようにして御言葉に生かされ、あなたがたが生き生きと生きることを神さまは喜んでくださる。

 

★2014年 2月 2日(日) 説教題「清々しい人に」 マルコによる福音書 1章40〜45節

 「重い皮膚病」という言葉には経緯がある。旧約聖書の原語であるヘブライ語「ツァラアト」が、「重い皮膚病」の本来の意味である。それを規定しているレビ記13章では、皮膚にできる病気以外にも、47節以降は衣服や毛皮にできたカビについても「ツァラアト」が使用されている。
 つまり、皮膚病だけでなく、人体以外にも表面的にできる「穢れ」を含んで呼んでいるため、厳密には「重い皮膚病」という訳は本来の意味を狭くしている。ここでは病気ではなく、表面的な穢れという意味が正確だろう。
 さらに、「重い皮膚病」という言葉になるまでの経緯で大切なのは、新約聖書の原語であるギリシャ語「レプロス」である。英語の「レプロシー(leprosy)」という単語の語源になっている言葉で、現在のハンセン病のことを指す。つまり、特定の「ハンセン病」に意味を狭めてしまった。
 こうして、罪を可視化した「穢れ」は、人間についてのみ語られるようになり、また、特に病気という状態を意味するようになってしまった。そして何よりも、その解決方法として取られたのは「追放」だった。
 医療や近代科学の発達しない時代においての「追放」と、現代での「追放」は意味が変わる。わが日本は、ハンセン病の特効薬が完成してなお、50年近くも「らい予防法」によって差別と追放を続けてきた歴史こそ、重い。
 「清さ」を願ったこの人は、御心はどこかと求めている。その言葉にイエスさまは深く憐れみ、清くなるようにと命じた。「追放」を常としていた社会の中で、社会に戻っていくという「いやし」を行ったのだ。
 社会の前に立つより、人の前に立つより、何よりも神の前に立って清いと宣言されることが、生きようとする根本である。そして、神さまの御心が一人一人清くなるようにと願っていると知ることによって、恐れずに生き、互いの穢れを認める原動力になる。