説教要約(12月)


★ 2014年12月28日(日) 説教題:「砕かれた心」 聖書:イザヤ書61章1〜11節

 2014年もあと少しになりました。今年度を振り返ってみると、読売新聞の読者が決める2014年の出来事では、1位、9月27日の御嶽山噴火による災害、2位、4月からの消費税増税、3位、青色発光ダイオードによるノーベル物理学賞受賞となっていました。
 皆さんにとって、この1年はどうでしたか。計画していた通りにできたでしょうか。それとも、全く予想もしていない出来事に驚いたり、困ったりしたのでしょうか。
 聖書のイザヤ書が書かれた時代、預言者イザヤの国は滅亡の危機にありました。ダビデ王、ソロモン王によって栄華を極めた時代もありましたが、その後、国は分裂して、強大な他国に恐れて生活していました。
 ある人は、経済が悪いと考えたでしょう。ある人は、軍事を強化すべきだと意見したでしょう。外交を成功させれば問題という考えもできます。しかし、イザヤは、この危機が神と人との関係に原因があると言うのです。
 豊かな生活の中で忘れるものがあります。便利なもののおかげで人に感謝することも少なくなりました。多くの物を持つことで、大切にする思いはどこへやら。そして、神に頼って生き、恐れることもなくなりました。
 イザヤは言います。今、この終わりの時にあなたの生きた道筋を振り返れと。神さまとの関係を見つめ直すことこそ、この危機の意味であると悟ったのでした。
 イザヤ書はたくさんのテーマがありますが、最も重要なのは「砕かれた心」を持つことです。自分の考え通りにいかなかったこと、自分の思いが砕かれ、神さまの思いは何だろうかと求める心のことです。
 この1年を振り返る時、思い通りでなかった。しかし、その想定外の部分に神の思いがあり、自分の考えを砕いて神さまにお委ねすること、それが新しい年に向かう準備になるのです。1年を、主に感謝します。


★ 2014年12月21日(日) 説教題:「命が照らす世界に」 聖書:ルカによる福音書1章26〜38節

 讃美歌であり、クリスマスソングとして親しまれる「きよしこの夜」。イエスさまが生まれた夜の情景が語られているが、その光と闇は歌詞のみではなく、作詞者の深い人生経験に根差していると言われる。
 「きよしこの夜」にはいくつかの謎があるそうだ。1つは、母の愛が語られていないこと。聖母マリア崇拝の色濃いカトリック世界で生まれた歌としては、ある意味珍しい点なのかもしれない。
 作詞者ヨゼフ・モールの家庭は複雑だった。姉と彼と弟は皆、正式な結婚でない関係から生まれ、それぞれ父親も違ったからだ。だからこそ、母に感謝はしながらも、何かしらのわだかまりは捨てられなかったのだろう。
 貧しい家庭育ちのヨゼフは幸運だった。彼は、大聖堂の副司祭に援助してもらって大学まで進学し、聖職者として自立することができた。聖歌隊としても認められ、これが彼の音楽素養になった。
 ヨゼフは自立して最初の任地としてマリアプファル村に志願した。故郷からかなり遠くの山奥の村だった。そこは、自分が生まれて間もなく家を去った、父フランツの故郷だったからだ、
 父の故郷に行くやいなや、近隣の村を歩いて実家を見つけている。そして、祖父に会うことができた。父親本人ではなかったが、祖父との時間は彼にとって求めていたものを満たしてくれるものだったに違いない。
 祖父が亡くなった年にこの歌詞は作られることになる。そして、彼は6節まで書いている。現在では3節のみであり、使われなくなった残りの3節は非常に社会に訴えるような内容であった。
 そこには「父の愛」によって、「兄弟」である全民族が和解する世界を描いていた。祖父との出会いによって、ヨゼフは、貧しく苦しかった生活を母のせいにするのではなく、長く続いた当時の戦争に原因があったと考え直し、自分と同じような境遇の子ども達がいなくなるように、世界の平和を歌った。


★ 2014年12月14日(日) 説教題:「主は恵み深い」 聖書:ルカによる福音書1章5〜17節

 キリストの誕生と共に聖書に記されているのは、洗礼者ヨハネの誕生である。ヨハネはキリストのいとこにあたり、神の福音を伝える助けをした人とされている。
 ヨハネという名には、『主は恵み深い』という意味が込められている。その子が生まれた次第は不思議で、父ザカリアが天使からお告げを受けたとされている。
 聖書では、年老いたザカリア夫婦が出産など出来ないと、天使の言葉を疑ったので、ザカリアは言葉を話せなくなる。彼は、天使に会った時、自分の仕事の中で最も重要な役目を受けたにもかかわらず、不憫な思いをした。
 ザカリアは、祭司の一人だった。そして、天使と会った時、神殿で神に仕える重要な役目をしていた。年に数回の神殿での働きは、何万人という祭司にとって一生に一度の重要な働きだったからだ。
 若い日に祭司となったザカリアは、神殿で働ける時を夢見ていたが、全く機会に恵まれなかった。そして、年をとり、何でも出来た頃からは変わり果てた姿で、体を引きずるように神殿で働いたのかもしれない。
 天使に告げられた突然の出産。それは、祭司ザカリアが、神殿の仕事と同じくずっと待っていた希望だった。彼が言葉を話せなくなったのは、「ヨハネ」という名を語るためだけでなく、『主は恵み深い』と告白するためだったのかもしれない。
 私たちは望んでいる時に、望んでいる物を、望むような形で得られないことがある。そして、時が経ち過ぎてそれが目の前に来ても、何の意味もないようになることがある。
 神さまに、「もう少し早ければ」と言いたくなる時もある。でも、私たちに与えられたのは、今のままの生き方であり、それは遅くも早くもない。今は私たちにとって最も重要な神との出会いの時だと信じたい。


★ 2014年12月 7日(日) 説教題:「解き放つ言葉」 聖書:ルカによる福音書4章14〜21節

 イエスさまはユダヤ人でしたので、ユダヤ教の会堂に出入りしていました。当時、ユダヤ教の礼拝とはエルサレム神殿へ巡礼することで、それ以外の時は会堂で集まり、交代で聖書朗読や祈りをしていたようです。
 イエスさまが聖書朗読の当番になった時のこと。手渡されたイザヤ書を読まれました。そこには解放を呼びかける「主の恵みの年」について書かれていました。これは古くはレビ記に規定されたヨベルの年のことです。
 旧約聖書の時代、イスラエル民族はそれぞれ割り当てられた土地がありました。しかし、時が経つにつれ、借金の形として土地が売られたり、家族が奴隷となったり、民族の中でも貧富の差が起こりました。
 レビ記には7年ごとに土地を休ませることに加えて、7年の7倍の49年、切りを良くして50年ごとに土地も奴隷も解放することを決めたのです。今の社会では画期的なルールでした。
 実は、西暦2000年を記念してこのヨベルの年にちなんだ運動が起こりました。先進国に多額の借金をしている国々は多くあり、その借金を帳消しにして福祉や医療に使ってもらおうという計画でした。
 この運動の一部は成功して借金が軽くなった国がありましたが、全ては難しいというのが現実です。ですから、イエスさまの時代も、50年ごとにあるヨベルの年は本当に実現したのか疑問です。
 でも、そのヨベルの年が「実現した」と言われたイエスさまの目は何を見ていたのでしょうか。世界の地図を思い出してください。今と同じである時代がどれくらい続くでしょうか。
 イエスさまの目は高いところから見ています。地球を上から見て、全ては神さまのものであるというのです。誰の手に渡ろうとも、最後には神さまのところに帰ってくるのです。神さまのものである、その考え方が、持たない人も、持っている人も両方を所有する生き方から解放させるのです。