説教要約(11月)


★ 2014年11月30日(日) 説教題:「待ち焦がれる」 聖書:ルカによる福音書1章28〜31節

 今日からアドベント期間に入ります。クリスマスまで4つの日曜日を、4本のロウソクを灯しながら、キリストの降誕を待ち焦がれます。騒がしい世間の習慣から離れて、心静かに御子の誕生に目を向けたいものです。
 聖書にはおよそ、クリスマスには似つかわしくない恐ろしい出来事が書かれています。町の滅亡、自然の異常、災害などです。でも、そのような恐ろしい闇の出来事の中に、世の光であるキリストが来られるのです。
 暗闇で生きるように希望を失いかけている私たちのもとにキリストは来られます。しかし、私たちの思うような形ではありません。なぜなら、神の子が人間の姿をとってマリアから生まれるとは意外なことだったからです。
 そのことを聖書は「人の子」と言って表現します。ダニエル書には、預言として救い主が人の子になって来るとあります。でも、なぜ、人間の姿になる必要があったのかは分かりません。
 そもそも、「肉体」は汚れたものと考えられていました。肉体があるからお腹がすいて他人のものを奪ったり、情欲にかられたり、罪の原因だとされていました。人間は罪なる肉体と清い魂の葛藤だという考えもありました。
 御子イエスが肉体をもったのは、その罪の可能性と肉体が受ける痛み、苦痛に耐えながら、神の言葉によってこの肉体を良いことのために用いることを教えています。この体で神と人に仕えることです。
 そして、何よりも罪を犯し、足りないところがある私たち人間がつながり合うためです。イエスは弟子を集めて指導されました。この肉体は1つでは完成せず、つながり、助け合いながら「からだ」となっていくのです。
 人の子としてお生まれになるイエスは、新しい見方で生きるように語ります。この肉なる体は、精肉のように切り分けられたバラバラのものではなく、互いにつながり、仕え合って一体となるためにあるのです。クリスマスまでの期間、清められ、助け合い、進みましょう。

★ 2014年11月23日(日) 説教題:「あの日、あの時を」 聖書:詩編90編1〜12節

 鳥取が誇る唱歌「ふるさと」の歌詞制作100周年が記念されている。田舎暮らしもなく、見たことのない情景が歌われているが、何となく「なつかしい」と感じる人は多いのではないだろうか。
 そのような「ふるさと」の歌詞を思いながら、実は、命は全て同じところからやってきて、また、そこに帰るからこそ、そう感じるのではないだろうかと思う。そのふるさととは、天のことだ。
 詩編90編では、人間のはかなさと神の永遠が語られている。私たちは野に咲く草花のように、長いようであっという間に命は散ってしまう。その命のはかなさを教えてくれたのは、何よりも愛する人たちだった。
 詩編90編はモーセの歌と言われている。彼の最期はどうだったのか。エジプトから奴隷だった民族を解放し、新しい約束の地に導く働きをした。しかし、彼は、その土地に入ることができずに命を終える。
 モーセの最期は、人間とは皆、何かをなそうとしながら、中途半端に終わる悲しさを伝えている。そして、それと同時に、その思いは次の世代、生き残った人たちに受け継がれるのだ。
 写真でしか見ることの出来なくなった、愛しい人々の死は何を託したのか。生きることの弱さと感謝、そして、命の終わりに続く神の国への道筋ではないだろうか。
 神の国は空高く、私たちの手の届かないところにある。だが、その扉を開くのが十字架なのだ。罪深き存在、神から見れば小さな存在が赦されて、清められて迎え入れらるのだ。
 私たちにはふるさとはある。あの日、あの時に失った笑顔に、いつか、いつの日か、再び出会うことを希望しながら神に祈る。なつかしき友よ、愛する人よ元気にしているか。神のもとで安らかであれ、また、会う日まで。

 

★ 2014年11月16日(日) 説教題:「ひかり、ひかり」 聖書:テサロニケの信徒への手紙T 5章5〜6節

 聖書には多くの場面で、光と闇という表現が出てくる。書いてあるところによって意味することは違ってくるが、一つ言えることは、光とは見えない部分を見ることであり、闇とは見える部分を隠すことである。
 本日は子ども祝福の日として礼拝を行っている。それぞれが豊かに成長し、光輝く将来を願っているが、それ以上に、神さまが見ておられることを知り、また、見えない部分を大切にしてほしいと思っている。
 今年は、糸賀一雄氏の生誕100周年が祝われている。彼は、教育者として戦争孤児を引き取る働きをしたが、特に、その中でも障害のある子どもたちへと一層思いを強くしていく。
 彼の一生のテーマは、「この子らに世の光を」だったと言われている。それは、親を失って更に障害までを負う小さな命に、社会的援助を求めていたからだ。しかし、その思いは変えられることになる。
 なぜ、障害者をもって生まれてくるのだろうか。その命に意味はあるのだろうか。ただ、助ける側に立って見ている自分に疑問を持ち始め、もしかしたら、この子どもたちこそが、私たちにとって必要なのではと考え始める。
 一人で出来ることが求められる教育にとって、最も必要なのは互いに協力することなのだ。生きるとはその信頼によって成り立つ。そうであれば、自立が求められる社会において、協力を必要とするこの弱い子どもたちこそが光になるのだ、そう糸賀氏は考えたのだろう。
 彼は、「この子らを世の光に」と改めた。自分の利益に応じてバラバラになっていく社会において、それをつなぎとめる存在として、障害者をもつ人々が神さまの使者として社会に生まれるのだ。
 そのような希望ある見方を子どもたちが持つことができるよう、豊かな成長を神に願っている。痛みに目を閉じる闇の子ではなく、何事にも神を信じて見えない部分を大切にしてほしい。


★ 2014年11月 9日(日) 説教題:「反省の反省」 聖書:ルカによる福音書3編1〜9節

 「悔い改める」という言葉は日常では使わないだろう。いわゆる宗教的用語であり、キリスト教では重要である。洗礼者ヨハネがそれを用い、イエスさまにも受け継がれた教えである。
 悔い改めると聞くと、自分の行いを反省して改めることだろうかと想像する方も多いだろう。しかし、その本質は異なっている。元のギリシャ語「メタノイア」は、見方を変えるという意味なのだ。
 洗礼者ヨハネをテーマにして、近代彫刻の父と言われるロダンが作品を作っている。当時洗礼者ヨハネといえば、幼子か、老人の姿で描かれた時代に、ロダンは筋肉が盛り上がり、力強く前に歩くヨハネの像を作った。
 洗礼者ヨハネ自身も変わった考えを持っていた。祭司の子であり、当時では富裕層の生まれだった彼は、大きくなって町を出て荒野で生活していた。貧しい修道生活である。
 ヨハネについては出生と成人した姿しか分からないが、想像するに、神殿の中にある様々な汚職や堕落を目にしたのかもしれない。祭司という見た目の良さとは裏腹に、そこに潜む悪をヨハネは嫌ったのかもしれない。
 神殿はもはや神のいる場所ではないと悟り、何もない荒野こそ、神と出会う場所だと考えたヨハネを、ロダンは力強く歩み出す人として描いている。新しい見方を得たヨハネのごとく、ロダンもまた、新しいヨハネ像を作った。
 ロダンの作品で有名なのは「考える人」だろう。実は、「地獄の門」という作品の一部に門を覗き込む人として既に作っていた。その後、その「見ている人」だけを取り出して、「考える人」は世に出たのだ。
 「考える人」という題は、ロダンのものではなく、像を鋳造した職人が付けたと言われている。それは、見る人の内面を映している。悩み多い人には考える人であり、疲れた人には座り込む人に見えるだろう。あなたにはどう見えるのか。私には、不条理や悲劇の中で、神に尋ねている人に思える。


★ 2014年11月 2日(日) 説教題:「スマイル0円」 聖書:詩編133編1節

 私の子供の頃は、マクドナルドに行って食事をすることが、とても豪華なことだった。そのマクドナルドが今は赤字で苦しんでいるとは想像もできない頃の話である。
 そのマクドナルドのメニューには「スマイル0円」というものがある。どうやら、各店舗の中でもサービスの良い所でしか表示を許可されていないらしい。学生の時分には、いたずら注文したこともあったが、どの店員も気持ちの良い笑顔を返してくれたことを覚えている。
 「スマイル0円」は、ささやかなユーモラスと共に、私たちが普段何気なく行っている物のやり取りについて考えさせてくれる。それは、簡単なことだが、「幸せを売っている」という自信なのだろう。
 私たちは礼拝後にバザーを予定しているが、何を用意したり、どのように売ったり、売れ残った物のことを心配しているかもしれない。でも、大切なことは、笑顔で迎え、そして、来た人が笑顔で帰って行くことなのだ。
 岩手県の蛤浜という小さな漁村は、震災後、その復興事業として「笑える牡蠣」を販売した。震災前は9世帯、震災後は3世帯の小さな集まりだが、その人々を助けようと支援が続いている。
 「笑える牡蠣」の目的は、1つは復興であり、支援を受けていた蛤浜の人々が自立するために、産業の牡蠣漁を取り戻すことである。2つに、その商品を買うことで遠方地でも復興支援が出来る。3つは、牡蠣漁とその販売の中で仕事のない人々に就労機会を与えることである。
 笑えるとは、一人ではない。一人勝ちではなくて、みんなで笑えるように、売る人も、買う人も、つくる人も笑顔になる。それは、神さまによって祝福されることであり、天においても笑顔があふれることである。