説教要約(10月)


★ 2014年10月26日(日) 講壇交換のため要約はありません。

★ 2014年10月19日(日) 説教題「幸せはどこに」 聖書:マタイによる福音書5章1〜12節

 イエスさまは、不幸に見えることを幸福と言っている。なぜ、そのようなことが言えるのだろう。しかも、集まって聞いていたのは人生に失敗したり、病気や問題を抱える人たちだった。
 東京農業工学大学にも生協が入っているそうで、そこの生協職員が有名になった。「生協の白石さん」と呼ばれる。今も在職かどうか知らないが、学生たちの何気ない質問を丁寧に返すことで人気が出た。
 バイトの面接に落ちたと聞けば、人生の挫折は早い方がいいと聞きますと答え、就職活動が大変と相談があれば、人生の通過儀礼と思って頑張りましょうと励ましておられる。物事の違う側面を分かりやすく伝えている。
 イエスさまは、悩んでおられる人々に神さまが見ていることを教えられる。それは、本当に不幸なのだろうか、もう希望もないのだろうか。命を与えられた神さまがあなたを支えてくれないのだろうか。
 失敗も病気も、変えることの出来ない事実であり、心の傷になってしまう。もし、そこばかりを見ているとだんだんと考え方がひねくれ、文句が出たり、諦めたりする。
 そのような疲れた心を受け止めながらも、その腐ってしまった部分をきれいにして立ち直る言葉をイエスさまは与えておられる。人間が不幸だと決めるのはその人の考えであり、神さまは不幸にしようとは思っておられない。
 「心の貧しい人は幸いである」。心の貧しいとは、「自分の貧しさを知っている」とも言えるようだ。本当の貧しさとは自分を知らず、自分に必要なものを知らず、自分を大切にできないことだと言っているのかもしれない。
 神さまの愛はそのような貧しさを満たすために、良い人にも悪い人にも太陽を与え、雨を降らせ豊かにしてくださる。与えているのに受けている、貧しいのに豊かである。それに気付く目を私たちは必要としている。


★ 2014年10月12日(日) 説教題「知らないという」 聖書:マルコによる福音書14章26〜42節

 地上に生きる人間の数が増え、複雑に絡み合った人間関係を組み立てながら生きている社会においては、人間にとって「知られていない」ということが恐ろしいことになる。
 一見、無視することは何もしていないことのようだが、幼児虐待の分類では、子どもを放置して無関心になることも虐待の1つとされている。1人で生きることの出来ない子どもはもちろん、無関心は人間を傷つけるのだ。
 聖書の物語では、鶏が鳴いた時に弟子ペトロが、自分の行ったことを反省して泣く場面が印象的である。ペトロは必死にイエスさまに従ってきたが、イエスさまを逮捕する兵隊たちを見て怖くなり、逃げ出した。
 でも、心配になったペトロは、捕えられたイエスさまをこっそり追うのだが、結局、イエスさまの弟子ではないかと周りの人たちに疑われ、三度も知らないとウソをついてしまった。
 「知らない」という言葉にはいくつかの意味が含まれている。無知、それは本当に知らないこと。物忘れ、他に関心があって見失うこと。そして、無関心、知っていながら知らないということ。この3つがある。
 無知であったはずはないし、物忘れでイエスさまを知らないと言ったのでもない。弟子ペトロは、知っていながら知らないと言い、無関心で全身を隠してしまったのだ。だからこそ、鶏の声を聞いて、我に返ったのだ。
 その後、弟子ペトロはどうなったのか。彼は諦めなかった。ヨハネによる福音書21章では、復活したイエスさまと再会を果たす。三度、知らないと言ったペトロに、イエスさまは、三度、自分を愛するようにと諭される。
 目に見えていることを偽り、真実を曲げてしまう現実にいる私たち。いつでもペトロのように「知らない」と無関心でいることに慣れてしまう。そうであっても、イエス・キリストは人が冷たくならないように愛を伝え、十字架によって、無関心が犠牲を生むことを思い出させている。


★ 2014年10月 5日(日)   説教題:「欠けた食卓」 聖書:マルコによる福音書14章12〜21節


 「最後の晩餐」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。死刑囚の方は、最後の食事を自由に選べる権利があると聞くが、イエスさまはパンとぶどう酒だったという。豪華でなくても、弟子たちと過ごせてよかったのだろうか。
 本日は世界聖餐日を迎えている。10月第1日曜日を、世界に広がるキリスト教の中では共に聖餐を行う日としている。それは、民族が違い、国家が分かれていても同じ食卓で同じキリストの命を分け合うからである。
 1つのパンとぶどう酒を分け合うことは、キリスト教の中で宗教行事であり、教会の一員となる意味を持つが、他方、社会においては再分配を意味する行為でもある。
 本来ならば、政府や地方自治体によって徹底されるべき富の再分配は、資本主義によって貧富の差が広がる社会を安定化させる意味合いがあるはずだが、私たちの周りを見る時に貧しい人々がいる現状はなくならない。
 教会が代わりに社会的機能を負うことは難しいが、社会の状況を見る時に、誰がパンとぶどう酒を手にすることができるのか、必要としている人に与えられているかを考える。
 キリストの体なるパンとぶどう酒を受けるにふさわしいのは誰なのだろう。最後の晩餐では、キリストを裏切った弟子ユダさえ、その食卓に座っていたのだ。福音書は彼を不幸な者、生まれなかった方が良かったというが。
 裏切り者がいた食卓、気持ちが1つにならず「欠けた食卓」であったにもかかわらず、最後の晩餐としてイエス・キリストはその命を分け与えることを宣言された。
 あの弟子ユダでさえ、食卓から追い出されなかった。いや、キリストの前に立つ時、私こそが神の背き、神の恵みにふさわしくない者であった。そう悔いる心がある。そして、悔いる心あるからこそ、パンとぶどう酒は一層、生きる力になる。欠けた食卓は、与えることによって赦す食卓でもある。