説教要約(1月)


★2014年 1月19日(日) 説教題「使われる事と仕える事」 マルコによる福音書 1章14〜20節

 今日の聖書を一読するなら、仕事と神さまの手伝いをすることは相反しているように見える。仕事道具の網を置いて、家族をその場に残してイエスの弟子として従うことは難しく感じる。
 そもそも、宣教とは何か。ラテン語でMissioは、派遣を意味する。神さまによって人が遣わされ、その場で役目を果たすことである。そして、1952年の世界宣教会議では、「神の宣教」という方針が打ち出された。
 「神の宣教」とは、それまで非キリスト教世界をキリスト教化しようと一方的に働きかけてきたことの反省である。なぜなら、この理解が発展途上国を植民地化する政策に関わってきたからである。キリスト教の絶対化を戒め、宗教の多様性を尊重する歩みを始めたのだ。
 端的に「神の宣教」は解放を意味した。直接的な布教ではなく、社会問題に身を投じて社会のただ中で生きるキリストを発見する中で、黒人解放神学や、女性解放神学などが実現してきたのだ。
 そして、旧来からある仕事観についても解放が必要なのだ。旧約聖書が語る仕事とは、罪の結果としての苦役であるが、長い歴史によってその理解は変わってきた。
 最も仕事観に影響を与えたのは、宗教改革期に起こった新しい「召命」の理解だった。これまで神に仕える司祭のみに使われる召命を、一般人にまで広げ、それぞれが持つ仕事に神から与えられた召命があるとしたのだ。
 確かに、会社の構造として人の下で働くことは、「使われる」ことである。しかし、神に仕えるという召命を得て、役目を果たそうとする人は全てにおいて神に仕えることになる。 
 結局のところ、人の上に人がおり、その上にも人がいる。しかし、最も頂点には神さまがおられるからこそ、仕事においても神に奉仕できるのだ。


★2014年 1月12日(日) 説教題「神の証し」 ヨハネの手紙T 5章6〜9節

 ヨハネの手紙を書いた背景には、この教会が持つ問題が大きな要因になっているようだ。当時、この教会にはグノーシス派と呼ばれる人々が、持論を展開したばかりに、教会は分裂の危機にさらされていた。
 グノーシス派の考えは簡潔に言えば、徹底した二元論であった。問題を白か黒かに選別し、そして、双方が対立する構図を描くため、結果的には相手と争うことになる。分かりやすい対立を描き、相手を倒す論理なのだ。
 人生の中で割り切れる問題はわずかだろう。ここでは、キリストの存在が神か人かということで、グノーシス派は人である部分を否定したことで、十字架の意味が曖昧になり、罪の赦しの核心を揺るがせている。
 圧倒的な論理で教会を裂こうとする人々を前にして、ヨハネの手紙は「愛」によってつながることを求めている。二元論は弱肉強食の世俗的世界の考え方であり、それを教会は愛によって超えていかなければならない。
 黒人解放運動に尽力した一人に、マルティン・ルーサー・キング牧師がいる。白人と黒人という、当時の二元論世界の中で、こう叫んだ。「・・・それでも我々はなおあなた方を愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ能力によってあなた方を摩滅させることを覚えておくがいい。いつの日か我々は自由を勝ち取るだろう。しかし、それは我々自身のためだけではない。我々はその過程であなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方を勝ち取るだろう。」(新教出版社『汝の敵を愛せよ』)
 聖書においても、神の愛は時に誤解された。唯一の神を愛するばかりに、それに従えない人々を裁き、差別し、殺すこともした。しかし、キリストの十字架によって、その愛の理解が深まったのだ。一つにとどまりながらも、全てに向けられる愛の姿である。まさに、敵対する相手を愛することによって、「あなた方を勝ち取る」と言わせる源こそ、神の愛なのだ。この肉の体に閉じ込められた一人一人が、一つになること、神から与えられた愛の証しである。


★2014年 1月 5日(日) 説教題「午年に手綱をゆだねて」 エレミヤ書 29章4〜14」節

 午年(うまどし)を迎えた2014年。ことわざに「塞翁が馬」というものがある。昔、中国に塞翁という人がおり、物事の反対を見抜く人だった。良いことがあっても、悪い想定をして備え、悪いことがあっても、良いことがあると希望する。自分の息子が落馬して大けがを負っても、彼は不幸ではないと考えていた。事実、その後に起こった戦争に息子は行かずにすむのだ。
 一年の計は元旦にあり、と言い、これから始まろうとする一年に期待は膨らむだろう。去年失敗したことをやり直したり、出来なかったことに挑戦したり。しかし、その計画を実のあるものにするのは、神さまである。
 今日の聖書では、災いのように見える計画も、全て平和への計画である。私たち人間のために平和の計画を用意しておられる神さまの思いが語られている。どのような事柄にも、その裏側まで見なければ本質は見えないものである。
 そして、平和を求める時に重要なのは、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る。」(ゼカリヤ9:9)という預言である。
 馬ではなく、ろばをキリストは選ばれた。それは、馬が軍馬として戦争をイメージするからであり、動きが鈍くて、しかも弱く小さな子ろばを神さまは選んで、その働きに使われる。
 だからこそ、馬は、驢馬(ろば)の「馬」であり、争いの道具ではなく、平和をつくり出す者として神の働きを担う者として歩みたいと願う。そして、もう一つ、重要なのはろばの性格が荒々しいのと同じように、「午」という言葉には「さからう」という意味があることに注意したい。
 人の罪は何よりも、悪いと知りながら行うことであり、良い心にさからうものである。神さまの言葉にさからい、計画にさからい、愛にさからう人間の弱さを知るからこそ、私たちの人生の手綱を神さまにゆだねるのだ。