説教要約(9月)                        


★ 2013年9月29日(日) 説教題「力の色」 マタイによる福音書21章18〜27節

 イエスさまと洗礼者ヨハネは、いわゆる学派を持たないカリスマであり、当時の律法学者ファリサイ派と呼ばれる人々から軽んじられていた。会話の中で、「何の権威によるのか」というのは、学派、社会的地位を意味する。
 では、権威と言われるものは誰が与えるのか。ヨハネが行う悔い改めの洗礼について、「天からのもの」か「人からのもの」かという質問に、 律法学者たちは口を閉じる。どの学派に根拠もない代物でありながら、民衆が熱心に求める洗礼を否定することが出来なかったからである。
 力や権威というものは、イメージとして、黒や赤に象徴される。闇の中で決められ、闇に葬られる様々な出来事。それによって流される犠牲の色がそれを意味している。しかし、本来的に力は無色透明であり、扱う人間によってその色が決まるのではないだろうか。
 洗礼を受け入れられなかった理由は明確である。誰がするのかと、何のために行うのかという問題をすり替えてしまっている。そもそも、大切な目的よりも、誰がそれをするのかということに人の目は向いてしまう。
 そうして、力、権威と人間が密接につながり出すと強制力と変わってくる。法律や組織などを理由にしながら、問題を解決することから、問題から人を遠ざけるようになってしまう。
 以前に紹介した、北九州で路上生活支援をされている奥田知志牧師から、「受援力」という言葉を学んだ。助けようとする側の援助能力と共に、相手がそれを受け入れられる力(環境、関係)を意味する言葉である。
 長らく歴史の中で、「力」は強制力、権威、支配の中で考えられてきたが、目的をなすための力であり、受け入れられるための力であるならば誰がそれを持つのかという色付けから離れなければならない。受ける側が、常に「天からのもの」として気持ちよく受け取れる時、神さまの恵みによって強制力は共生力に変わる。

★ 2013年9月22日(日) 説教題「人生の秋に 山を下りつつ」 申命記34章1〜7節

 エジプトから奴隷解放を先導したモーセは、120歳で人生の終わりに神の声を聞いた。神と共に山の上で豊かな大地を見、明るい未来を想像しながら、眠りにつく。その年齢にして目は衰えず、活力は失われていなかったという。
 まず驚くことは、人間の一生の終わりが、ただ弱まって失われていくという考えではなく、聖書においては、人は何かの役目を神から与えられ、それを終えて後最期を迎えるのであり、その時まで活力は失われないのだ。
 正に、人生は山登りのように、登り始めはその行き先を知らないまま、意気揚々と駆け上がり、頂点において周囲がよく見えるように色々なものを学ぶが、最期には思い出を残して下山しなければならない。
 今日は敬老の皆様を前に祝福と感謝の礼拝をもっているが、人生の秋にそれぞれの山を下りつつ、青春や充実していた時代の情景が、山頂での風景のように思い出されていることと存じる。
 しかし、人生の秋は紅葉に彩られている。熟しているとも言える。あのモーセが神の僕として働き出したのは80歳からである。信じて生きることは、いつも遅すぎることはない。 
 青森県出身の冒険家三浦雄一郎は、80歳でエベレスト登頂に成功した。幼少期から体の弱かった彼であっても、山を登ることに信念を見出して、一筋に生きてきた。
 私たちの目の前にある山は、神と共に生きるという道を示している。その登山がいつ始まり、いつ終わりを迎えるのか分からないが、どのような人でも挑戦することができる。
 勉学・仕事・家事・育児・介護、様々な場面で働きを終えてきた人生の秋にもう一つ、信じるという新しい登山を楽しむ機会がここにある。モーセが見た神の約束という希望を、私たちも心のフレームに収めたい。

★ 2013年9月15日(日) 説教題「神の国銀行」 マタイによる福音書19章16〜30節

 「天に宝を積みなさい」という言葉は、どうすることなのだろうか。まさか、神の国に銀行があって、その口座に振り込みなさいと、教会が言っているのではない。
 一人の金持ちの青年は、憂いていた。全てを手に入れ、善いことも尽くしてきたはず。でも、なぜか、神の国に入られるような確信が湧いてこなかったからだ。それよりも、何か足りないような不安を持っていたのだろう。
 一般的に考えるならば、それほど財を築いたならば、この世界で神の国のような自由な生活をすればいいのではと思うかもしれない。でも、青年は一瞬の人生ではなく、永久の安らぎを求めていたようだ。
 宗教全般がそうであるように、キリスト教も金儲け自体を奨励することはなかった。しかし、教義自体によって金儲けを結果的にする人たちがいた。それをマックス・ウェーバーという社会・経済学者が説いている。
 詳しく説明はしないが、カルヴァンの予定説を聞いた人々が、財を持つことが救いのしるしであると考え、その結果、清貧な生活と勤勉な労働から大きな貯蓄が生まれていき、資本主義経済の一つの形となったという説である。
 どの時代においても、持つ者は祝福されていると思われがちである。しかし、そのような人に対して、全てを投げ捨てて私について来なさいとイエスさまは言われる。
 持つことは祝福であるかもしれないが、捨てることは信じて頼ることなのだ。そして、名も知らない他人を助けて分け与えることは、相手の返礼ができないからこそ、天において神が覚えてくださっているのだ。
 あなたがた一人一人が行っている小さな隠れた働きを、神さまは大きな目で見てくださっている。今はまだ、評価されたり、報われることがなくても、神さまがしっかりと覚えてくださっている。

★ 2013年9月8日(日) 説教題「七倍返し」 マタイによる福音書18章21〜35節

 今、巷で「倍返し」というフレーズが流行りつつある。ドラマ「半沢直樹」がその火付け役であり、上からの圧力に反発するような力を、主人公をして「倍返し、10倍返し、100倍返し」と言う台詞の中に表現している。
 殴られたら殴り返すのが人間である。それも、より強く。その心情をドラマは銀行員の世界で描いている。半沢風に言えば、ペトロの言う「七倍赦しますか」は、「七倍返しにしてもよいか」となるだろう。
 七倍も赦します、というのはペトロとしては譲った方だった。しかし、イエスさまは、七の七十倍赦すことを求めている。それは、人が犯した罪の数×490倍の分だけ赦すのではなく、際限なく赦すことである。
 一つには、七倍も赦しますと言ったペトロをたしなめる意味はあっただろう。私はこんなにも憐み深い、という考えは捨てなさいということだ。そのような自分の限界を軽く超えて、赦すという境地は開かれていく。
 ペトロが赦すことを尋ねたことは、後々に大きい意味をもつ。彼は、イエスさまが逮捕された後に、イエスさまとの関係を三度も否定したのだ。それはまた、以前にイエスさまが言い渡していたことでもあった。
 ヨハネによる福音書は、復活したイエスさまとの物語に、ペトロとの後日談を載せている。イエスさまはペトロに、「わたしを愛しているか」と三度も尋ねるのだ。まさに、三度否定したことに対する、三度の確認なのだ。
 イエスさまは意地悪をしているのではない。三度も愛するかという問いの中で、愛の意味を変えている。一、二度はフィレオー(兄弟愛)で訊き三度目はアガパオー(神の愛)を使っている。
 ペトロの限界を知ってのことだ。あなたが赦されて生きているのは、わたしが愛したからだ。そして、あなたが赦せない時にも、わたしの愛がそれを覆うから心配ない。それが答えなのだ。心の広さではなく、愛の深さこそ、赦しの力であり、神の愛に包まれた私たちは、何倍までと考えなくてよい。

★ 2013年9月1日(日) 説教題「迷い出た一匹を」 マタイによる福音書18章10〜20節

 「おおきなもののすきなおうさま」(著:安野光雅)という絵本がある。何かと兵士に無理を言って、大きなものを作らせる王様が出てくる。屋根よりも高いベッドの上で目を覚まし、プールのような洗面所で顔を洗い、芝生よりも大きなタオルで顔を拭いて一日が始まる。
 そのような王様がある時、考え付いたことがあった。大きな庭と大きな植木鉢を用意して、大きな花を咲かせようというものだった。早速、兵士たちを集めて大きな植木鉢の真ん中にチューリップの球根を植える。
 数日が経って、楽しみにしていた王様は、大きな植木鉢の真ん中に小さな花が咲いているのを見つける。物語はここで終わる。著者は、どれほど大きなものを作れるようになっても、命だけは人間の手では作れないと語る。
 王様の姿はある意味で人間を表現しているように思う。大きなものは好きだし、相手より大きいとなお良い。それでいて、本当は小さな存在である自分に気付かずに生きているのかもしれない。 
 聖書には迷い出た一匹の羊を「小さい者」と呼んで、大切にするように語っている。それは、迷い出た存在が、全体から比べて小さなものだということではなく、また、迷い出るような愚かさを意味しているのでもない。
 どのような人間が、生きる道から外れて迷子になったとしても、それは神さまの目から見て小さな命であり、探しに行く価値があるものとして見てくださっている。小さいからこそ、守ってくださるのであり、大きく見せたり、強がったりする人間を神さまは困りながら、助けるべきかどうか不安になりながらご覧になっているのだろう。
 わたしにはわたしの、あなたにはあなたの神さまは見ておられる。小さな者よ、神さまの守ってくださる囲いに入ろう。