説教要約(8月)                  


★ 2013年8月25日(日) 奨励題:「信友を支えに」 黙示録3章15〜21節  宮田和子姉

 私の過去の生活の中で、三つの大きな人との出会いがありました。
 @ 私の独身時代に素晴らしい御婦人との出会い。御夫妻にはそれぞれ5・6人ずつお子様があり、12人の子育ての中を乗り越えた方でした。
 A 私の結婚生活に行き詰まった時、目の前の十字架に導かれ、大村牧師に出会う。
 B 2人の子どもとの出会い。
 この三つの大きな出会いの中で、苦しみながら神に祈り、助けを求めた。そのような生活の中で、聖書の御言葉により慰めが与えられた。
 ◎ 出エジプト記16章13節
 ◎ フィリピの信徒への手紙T2章6〜8節
 ◎ ヨナ書2章
 ◎ イザヤ書53章など
 子ども達はスダチ、夫は召され、今一人静かな生活をしている中で、過ぎ去った私の歩んだ道のりの意味を考える時、感謝の涙がこぼれるのでした。それは、神の愛ゆえの私への救いの道であったと信じるのです。 


★ 2013年8月18日(日) 「孤毒(こどく)」 マタイによる福音書13章24〜30節

 聖書には種まきの話が出てくるが、マタイはその話の後に毒麦が畑に入り込んだという語りで、世界には悪い毒を撒き散らす人間がいるように聞こえてくる。確かにそういう節がないわけでもない。
 今、月曜日に「名もなき毒」というドラマが放映されているが、これもまた、一人の人間によって問題が起こり、大きくなって周りを飲み込んで不幸にする様を描いている。人間の悪意は、まさに毒のように内面を破壊する。
 そもそも、なぜ毒が存在するのだろうか。自然に目を向けてみると、有毒性の植物が生活の中に見つけられる。もうすぐ赤い花をつける彼岸花も有毒植物であり、モグラ対策に畑の周りに植えられていることがある。
 有毒植物の多くは、根に毒を持っている。なぜなら、根を傷つけられれば枯れてしまうからである。つまり、毒は外からの攻撃に対する対抗策であり、自分を守ろうとする手段の一つなのだ。
 自分を守ろうとして毒を持つ。それは、自然界だけに存在するのではなく、人間において変わらない。強がろうとする人間ほど、攻撃に対して敏感であり、受けたことを根に持つのだ。そうした警戒心が有毒を帯びる。
 毒の恐ろしいのは、それを受けた側だけではない。それを持つ者自体、他者との関係から絶たれて孤独になる。つまり、孤毒なのだ。そして、一人の世界に閉じこもる時、その一人よがりな毒性は強まっていく。
 しかし、畑の主、神さまは毒麦をすぐに抜こうとせず、成長を待っている。マタイはそれを良い麦を守るためだと言っているが、私はこの毒麦をも見守っている神さまの姿を想像する。
 毒を制する解毒剤は、その本人からしか作れない。そして、人間の孤毒を解毒するには、その本人が立ち直るしか道はない。そこに神さまは呼びかけている。その深い闇に神さまは呼びかけている。


★ 2013年8月11日(日) 「あなたを待つ家」 コロサイの信徒への手紙3章18〜4章1節

 日本のお盆は家族のためにある。今生きている家族と、そして、眠りについた家族のためにある。家に向かう人も、迎える人も、労力と時間を費やしながら、一つの和をつくる。
 声が聞きたければ携帯電話があり、顔が見たければテレビ電話が可能な時代に、直接会いに行くことの大切さは分かりにくい。その一方で、言葉や顔色だけでどこまで理解し合っているのか、伝えることの難しさは変わらない。
 長年、共に生きてきた家族ですら、素直に伝えられない。考えていることと、口から出ることの大きな違いに自分ながら驚く。いつか伝えようと思いながら、それを言い訳に時間だけが過ぎてきた。
 お盆の迎え火をたく姿を見ながら思う。もし、伝えるべきことがありながら、その人を失ってしまったら、言葉はどこに行くのだろうか。宛先を見つけられない小包のように、私たちの心に残される気持ちと、悔しさはどのように癒されるのか。
 だからこそ、人間は赦されることを必要とする。それは伝わることではなく、伝わらないことの確認であり、伝わらない思いを神さまに任せることである。
 そうして、赦しがあるからこそ、復活するという希望が生まれる。もう一度会わなければならない理由と、聞かなければならない答えの橋渡しができるのは命を造られた神さま以外におられない。
 できれば、今、会えるうちに伝えておこう。でも、それが難しくても、神さまに祈ろう。神さまなら、言いにくいことも上手く伝えてくださるに違いない。そして、それぞれが持っている小包をそっと渡して、少し身軽になって生きていこう。

★ 2013年8月 4日(日) 「賢さと、素直さを」 マタイによる福音書10章16〜23節

 ホーリネス弾圧事件、1942年6月27日の朝、120名を超える牧師たちが逮捕された。この一斉検挙はさらに続くのだが、ホーリネス系教会が迫害にあったのは、再臨のキリスト信仰と天皇崇拝が相容れないものとして、当時の政府が見過ごさなかったと言われている。
 おそらく、ほとんどのキリスト教信仰は戦争と天皇崇拝に相容れない。広く言えば、多くの宗教が立ち向かうべき問題だったのが、ホーリネス系の先生方のみが弾圧されたのは、「見せしめ」の意味が大きいだろう。
 イエスさまは迫害が起こることを予想して、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」行動するよう私たちに残している。ホーリネス系教会のように、相手が何であれ信仰を貫く「鳩のような素直さ」だけでは生きられない。
 賢さと素直さは矛盾するように感じる。また、時に賢く問題を回避し、また、時に素直に信仰を語るというのは、ダブルスタンダードにも見える。その使い分け自身が二枚舌の蛇みたいにも思えるからだ。
 だからこそ、この賢さと素直さとはバランスだとか、両方が大切だという考えから離れたい。それは、生き残った人とは「賢い」生き方をした人たちであり、その子孫であり、いわゆる蛇の一族、子孫であろうから。
 ホーリネス系教会が迫害に遭う傍らで、日本基督教団は冷たかった。それを喜ぶような声まで上がったらしい。それだけでなく、戦争に加担するような方策を採り続けていたことは、「蛇のような賢さ」と言えるのだろうか。
 イエスさまは優しい。ずる賢く生き残った人々を責めることなく、「蛇のように賢く」生きたと認めてくださっている。そして、生き残った私たちに「鳩のように素直に」神を信じる道を残してくださっているのだ。
 日本基督教団として生きる私たち湖山教会もまた、そのような過去を背負いつつ、賢く、そして、素直に生きる道へと導かれたい。

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