説教要約(7月)                   

★ 2013年7月28日(日) 「アイ アム ホームレス」 マタイによる福音書9章35〜10章7節

 暑い夏、納涼祭。町の一角に出来たその夜かぎりの空間は、家族のようなつながりを感じさせる。今、人と人とのつながりが弱くなっている。「絆」をテーマに、北九州で路上生活者の支援をする奥田知志牧師は、「ホームレス」という意味から現代の問題を鋭く見ている。
 「ホームレス」と同時に「ハウスレス」がある、と奥田師は語る。食事、衣類、その他物資による支援が必要なのは、「ハウス(家屋)レス」の状態を意味する。それ以上に「ホーム(家庭)」としての人間関係が破壊された状態を「ホームレス」と考え、二つを満たすように活動されている。
 それは路上生活者が自立したとしても、孤立しては生きていけないことをよく理解した立場である。そして、自分を心から迎えてくれる場所がないという孤独を感じている人々は、社会の影に多く潜んでいる。
 聖書には、「飼い主のいない羊」に例えられた群衆がいた。まるで現代の「ホームレス」のように。どこに行くべきか、誰と過ごすべきかを知らない。飼い主の代わりになる物がないように、物質的な支援には限界がある。
 孤独を抱えながら癒されないでいる人々をイエスさまは憐れんだと書かれている。憐れむとは、「内臓が痛む」という意味である。日本語で言う「断腸の思い」に近いかもしれない。
 言葉の表現上は使うことが出来たとして、本当に内臓が痛むほど相手を思うことができるだろうか。いや、出来ないからこそ、関係を断ち切り、ホームレスという状態があちこちで生まれるのではないか。
 わたしの思うに、人間が人間を憐れむことは難しい。不可能ではないが、わずかだろう。だからこそ、私たちは心の貧しいホームレスであることを自覚しなければならない。神さまは、「飼い主のいない羊」のように孤独を感じる人を探している。神の家にあなたの場所がある。


★ 2013年7月21日(日) 「こちらキリスト湖山教会」 マタイによる福音書9章9〜13節

 日頃から、隣接するこども園との関わりで、子どもたちの元気な姿を見ているが、「特別支援」という言葉を耳にするようになった。最近では、アスペルガーやADHD、学習障害等が一般的になってきたが、これまでは園児個人の問題として、”困った子”として見られてきた。
 しかし、子ども達への理解が深まるなかで、”困った子”ではなく、”困っている子”なのだということが分かってきた。問題を起こすのではなく、問題を起こさざるを得ない状況にある。自分の意思で行っているのではなく、身体的弊害があることで困っているのだ。
 ユダヤ人社会において、徴税人や罪人、外国人らは、”困った子”たちであり、どうしようもない罪にまみれていると考えられていた。そして、イエスさまは、そのような人たちを招くために来たと言う。
 医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。これはギリシャ哲学にある言葉だが、それを使って、罪を病気とし、罪人を病人と呼んで招こうとされたのは、なぜだろうか。
 創世記によれば、罪とは、「悪いと知りながらそれをすること」だとされている。つまり、罪人たちは他に選択する自由があり、努力する余地もあったが、自分の意思で悪いことをしたのだと考えられていた。
 それに対してイエスさまは、罪ではなく病気なのだと言われた。その人が悪いのではなく、病気であり、回復する機会もあるのだと。だから、切り捨ててはならないという意味なのだ。
 病人であるとは、”困った子”ではなく”困っている子”なのだという意味なのだ。人間が問題なのではなく、問題が人間の中にあり、その病んでいる部分をキリストに癒されることで、再び回復して喜ばれるようになると、イエスさまは希望を持つように語っておられる。あなたが自分を責める部分は、病気であり、神さまの前で癒される可能性があるのだ。

★ 2013年7月14日(日) 「欠けた茶碗と愛着」 ローマの信徒への手紙9章19〜28節

 いつも使っている茶碗を落としてしまった。欠けた茶碗は捨てるべきか、使い続けていいものか。些細なことで悩むのは、あなたが茶碗に愛着を持っているからで、欠けた部分を含めて大切だと感じているからだ。
 聖書では、人間は土の器にたとえられる。人間が土の塵から造られたからだ。そして、その器を造った陶工である神さまが、作品である人間をどう思っているかを語っている。
 人間は欠ける部分なく、完全な姿で造られたはずだった。しかし、優しさが欠け、思いやりが欠けていくうちに、いつの間にか、使い物にならない状態になってしまった。
 預言者イザヤは、人間が罪を覆い隠す器となったと嘆いている。天から神の恵みを受けるべく造られた器だったものが、自分の罪を隠そうと器を伏せるように、その心を神さまから閉ざしてしまった。
 今、聖書は言う。陶工は失敗作を破壊する権利があると。神さまはその欠けた器を打ち壊して、新しいものを造ることもできた。しかし、私たちは生きることになった。
 破壊されるべき器は、神さまの愛着を受けてもう一度、愛されながら神の手の中で生きることを赦されたのだ。私たちがもし、そのような愛着を受けて生きているのであれば、伏せられた器がひっくり返されて使われるように、私たちの思いも神さまへと向けていくべきだはないだろうか。
 愛着は物に命を与える。命を知らない存在を大切にして、生きる意味を伝えるのだ。私たちはみな、神さまの器であり、茶碗であり、作品なのだ。欠けた部分を補うのは愛のみであると知る。


★ 2013年7月7日(日) 「固い信頼」 マタイによる福音書 7章15〜29節

 パレスチナにはワジという涸れ川があり、乾期には川底が見えるが、雨期には雨が集められて川となる。砂の上に家を建てるとは、このワジの上に家を建てたが、雨が来て流されてしまうことなのだ。
 だから、岩の上に家を建てる賢い人になりなさい、と語っている。「岩」という言葉に、私は堅固な土台、何事があっても信頼することを想像していたが、語彙を探るうちに考えが変わってきた。
 旧約聖書で、「岩」はヘブライ語でツルとセラ、二つが使われている。ツルは、「神はわが岩」のような使い方で、砕かれることのない固さを示している。一方で、セラは、モーセが杖で打ち砕いて水を出した岩のように、砕かれるべき人間の思いを表現している。
 そして、このセラ(ヘブライ語)の訳語として、今日の箇所にある岩「ぺトラ(ギリシャ語)」が使われることがある。そうであれば、岩の上に建てるとは、神さまに固く信頼したいと願いながら、そう出来ない私の思いが砕かれているということなのではないか。
 いや、砕かれた思いに気付くことが、より強い信頼へとつながるのかもしれない。信じるという言葉には、疑うという言葉も隠れている。信じたいという思いには、疑っているという密かな思いが前提になっているから。
 幼い私に父は言ったが、信仰とは砂の上に棒を立てるようで、その棒を揺さぶって動くなら、より深く棒を押し込む必要がある。そのように、私たちの日常や、時に人生の交差点で起きる出来事によって、私たちの信仰の芯が揺さぶられ、土台は大丈夫なのかを神さまが確かめているのかもしれない。
 一枚の大岩から砕けて出来た石ころのように、私たちは神さまの愛を受けながらそこから飛び出てしまった小さな存在なのではないか。そう思うときに、その弱い私という土台の上に神の家が建てられるよう、信の芯を確かめていきたい。