説教要約(6月)              


★  2013年 6月30(日) 「サバクの民」 マタイによる福音書 7章1〜14節

 裁くな。裁かれるから・・・・。意味は分かるが納得できない一面もある。イエスさまの例えは鋭い。小さなことにこだわっても、重大なことには気づかない人間の愚かさを思い出させられる。人を裁く前に、自分を見つめる。
 裁くなとは、裁判の禁止ではない。カナン人の女性が助けを求めてきたとき、イエスさまは、一度断っている。それは、異邦人よりユダヤ人を優先されたからだ。しかし、結局、女性の粘り強い信仰によって奇跡は起こった。
 裁くなとは、善悪の判断を捨てることではなく、悪が善へと変わる機会になるのであれば、必要な行為である。カナン人だということで女性を退けたように。しかし、そのことによって、彼女の中にある信仰が強まった。
 では、裁くなと言われた意味はどこにあるのか。「裁く(ギリシャ語:クリノー)」の意味には、「分ける」は含まれている。つまり、裁くことによって人間の関係がバラバラになることを示している。古い歌に「東京砂漠」というものがあったが、そのようにたくさん人間がいても、互いを受け入れられずにバラバラに存在している、人間関係の渇きが「裁く」なのだ。
 問題はそこにある。小さなことに目を向けて、あの人はだめだ、この人もだめだと切り捨ててできた世界は本当に幸せだろうか。宮沢賢治氏の言葉を借りるなら、「世界が全体幸福にならない限り、個人の幸福はあり得ない」のだ。
 社会は存在するようで、そうではない。それぞれが、それぞれの思う幸福を追求すればするほど、互いを退けてバラバラになるのだ。そして、個人が孤独に病む中で、キリストが結び目となって私たちを支えてくださる。
 何よりも、十字架によって裁かれたキリストの御名によって、私たちは赦されて咎められることはない。罪を見ずして、命を見ておられるキリストの優しさを思い出しながら、裁く目を閉じて、和解の手を開きたい。


★  2013年 6月23(日) 「協働体」 使徒言行録 4章32〜37節

 教会は常に理想の中と外にある。聖書が語るのは、財産を共に分けて暮らす教会の姿であり、それは理想の中である。続いて、財産の全てを教会にささげようとしたが、ささげきれず、ごまかしてしまった夫婦の姿が描かれている。全てをささげることは難しいのが現実、理想の外なのだ。
 財産の放棄が問題だろうか。使徒言行録と同じ著者が書いたルカによる福音書を見てみよう。福音書では徴税人ザアカイが回心する場面で、財産の半分を手放したと書いている。救われた喜びが大切なのであり、財産の放棄が中心ではない。
 そうであれば、教会で共に生きることは財産の放棄ではなく、他の部分に目を向ける必要があるようだ。ドイツ人牧師で第二次世界大戦時にドイツ告白教会を作り上げたディートリッヒ・ボンヘッファーは、著作『共に生きる生活』の中で、罪の告白を大切に考えている。引用すると、
 「キリスト者の交わりはすべて、それが一つの理想像から出発して生きたために、何回となく崩れ去った。」教会が恐れるべきは理想的な関係であり、誰かが思う理想によって教会が支配されてしまうことなのだ。その結果、「交わりに理想像を持ち込む人は、第一に兄弟を非難する者となり、次に神を非難する者となり、遂には自分自身を非難する者となる。」
 罪の告白とは、そのような理想的な関係は終わり、互いの姿を隠すことなく表現する真実の交わりなのである。放棄するべきは理想であり、ありのままの自分をささげることが神の御前で互いを知ることである。
 罪がないように振舞うことに慣れてはいけない、そうボンヘッファーは語っているようだ。それは本当の姿か、それは真実の出会いか。十字架を前に私たちはどんな姿であったかを互いに告白する場所なのだと。
 裁判所において罪は罰を求めるものだが、キリストの教会において罪は赦しを得させるものである。そこに神が働く「協働体」なのだ。

★  2013年 6月16日(日) 「ささげる気持ち」 マタイによる福音書 5章21〜26節

 感情の中でも「怒り」は、その他の感情よりも原始的で古くからあると言われている。おそらくは、縄張りや自分の命を守るためにあったとされているが、怒りの感情をより理解することは人間を理解することでもある。
 例えば、交通事故に遭ったとする。A:相手が交通違反をして事故に至る。B:自分の過失で事故に至る。AとBを比べると、相手が明らかに悪い場合は怒りが前面に現れ、Bの場合、まず、自分の生命への恐怖が前面に現れる。
 以上の例で言えば、怒りの感情が前提とするのは、明確に善悪が分かった場合で、特に自分が正しくて相手が悪い時に怒りを感じるのだ。つまり、怒りは常に「正義の怒り」である。
 しかし、その「正義の怒り」は、常に主観的で一方的なものであることも気を付けなければならない。聖書はそのために次のような言葉を残している。
 「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」(詩編4:5口語訳) 聖書はこう語りながら、怒りで自分を見失うことなく、かえって、何が問題なのかを静かに神の前で考えるように求めている。
 それだけでなく、怒ることと罪を犯すことは別のことであるように書かれている。怒ることは人間の生理として避けようがないからである。怒りがより問題となるのはどんな時か。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」(エフェソの信徒への手紙4:26)
 怒りの感情は蓄積されやすく、他の感情に変化する。怒りが溜まれば理由のない激怒が相手を傷つけ、また、感情にふたをすれば「諦め」に変わり、問題ではなく、人に対して怒り始めると、「憎しみ」に変化する。
 その日の怒りはその日のうちに神に任せなければ、内を滅ぼすことになる。怒りを神に任せ、善悪の判断を委ねることが、ささげることの第一歩なのだ。

★  2013年 6月 9日(日) 「世界を笑顔にするS&B」 マタイによる福音書 5章13〜16節

 ストレスについて学術的に深く追求したハンス・セリエ氏は、「ストレスは人生のスパイスである。」と言い残している。全てのストレスがそうであるとは言いがたいが、何事にも積極的な視点を持つことは良いことだろう。
 聖書は、私たちが「地の塩」となって世界に味付けできるような貴重な存在になることを求めている。しかし、現実には、私たちが世界に何か刺激を与えるよりかは、私たちが世界に圧迫されていることが遥かに多い。
 やれ、礼拝に行く、奉仕に出かける度に、家族からの無言のプレッシャーに耐えている人は結構いるのではないか。日曜日という時間を共有して上手に使うことに苦労している人は少なくないだろう。
 家庭のことだけでなく、宗教全般が表に出しにくいと感じる現代では、どこでキリストの塩気を発揮できるだろうか。正に、色々な周りからの影響に左右されながら、塩気を失いつつあるのかもしれない。
 私たちが周りから受ける、見える・見えないストレスは、全て信仰におけるスパイスなのだと思えば、少しは考え方が楽になるかもしれない。してはいけないのではなく、より良い方法や考え方に進むための機会として。
 そういう意味で、私たちの周りにいる「スパイスな人たち」に感謝しつつ、私たちが本領を発揮するためにも、より一層賢く、時に大胆に、地の塩として周りを刺激していくことを求めたい。
 塩は、わずかでも全体の味を調節するように、数少ないクリスチャンが、この世界全体を調和がとれるように、しかも、塩が溶けて姿が見えなくなるように縁の下の働きを努めたい。
 スパイスだからこそ、周りと違う意見を大胆に語り、人が顔を背ける事実に光を当て、人を活かす調味料として、S&B(スパイス&ブライトネス「輝き」)を心がけていきたい。

★  2013年 6月 2日(日) 「ユー ゴッド メール」 使徒言行録 17章22〜34節


 1998年米映画。「ユー ガット メール」は、男女二人がメールを通して結ばれる物語を描いている。日常では仕事の利害関係にある二人だが、匿名性の強いインターネットの世界では知らずに互いを愛してしまう。
 今では、この匿名性が大きな問題を持つ時代だが、まだ、携帯電話も普及しない映画の世界では、「見えない」ことが大切なものを見つける糸口になり、素直な気持ちを表現する方法としてメールが考えられている。
 聖書では、パウロがアテネという学術都市で布教した様子を描いている。パウロは見た。神を象った偶像が街角に多く存在した。一度、彼はその像を見て本当の神を知らないことに怒りもしたが、同時に、アテネの人々がそこまでして、神を求めていることに気が付いた。
 何よりも矛盾を感じたのは、哲学に触れる機会の多い町で、神の像があることだった。哲学の世界では、神と人間は接触不可の関係であり、人間は知識と快楽を求めて生きることが望むべきことだと考えられていたからだ。
 パウロは思った。神の像と同じ数だけ、心に隙間があるのだ。人が願いを持つ時に、自分の願いを叶える神を思い描く。しかし、人間の利害は常にぶつかり合う。一人の幸せが、みんなの幸せであることはないからだ。
 パウロは見つけた。「知られざる神」をまつる祭壇。それは、聖書を読むキリスト者だけが神を知り、アテネの人々、その他神の像を拝む人が神を知らないということではない。
 私たちも神の姿を知らない。まるで、メールの相手が見えないように。しかし、イエスさまによって天の神が私たちを愛しているというメッセージを受け取っている。だからこそ、「見えない」けれど信じている。
 私たちは願う数だけ自分の神の像を作る。だからこそ、十字架のメッセージこそが、ユー 「ゴッド」 メール、神に出会うただ一つの扉なのだ。