説教要約(5月)           


★ 2013年 5月26日 「一人では背負えない」 マタイによる福音書 11章25〜30節

 キリスト教一般で有名な詩がある。「あしあと(英題 FootPrints)」は歌う。本来は原詩をそのまま載せたいが、紙面上、要約を許していただきたい。
 神さまと共に歩いてきた人生だと信じていたが、つらい時、厳しい時、悩んだ時には、まるであしあとが一人分しか残っていないかのように、孤独を感じていたと。神さま、なぜですか。
 神さまは答えた。最も痛んだ時、悲しんだ時、恐れた時に、私はあなたを背負って歩いてきた。だから、あしあとが一人分しかないのだ。
 生涯を振り返って、大きな傷跡を持つ人ならば、一度は神さまを疑い、怒り、離れたいと願っただろう。実際、そうした人もいる。周りを見れば、信じなくても何も失わず、かえって豊かに生きる人の姿に疲れすら感じる。
 「共にいる」、その優しい言葉を信じ疲れた人たちに、イエスは、ここにきて休みなさいと呼ばれる。そして、わたしの軛(くびき)を負いなさいと言う。軛とは、田を耕す時に家畜が首にはめる道具であり、2頭が一緒に背負って使う道具である。
 イエスが「わたしの軛」と言う時、その反対にある「あなたの軛」を捨てなさいと語っている。自分自身の悩み、自分一人で解決しようとする問題、それらを神さまに祈り、イエスさまと共に負う軛にしなさいと。
 わたし達は、自分自身すら背負うことが出来ないことを、気付かなければならない。そうでなければ、自責と孤独の沼に落ちていくことになる。
 神さまは命の創造主である。陶芸師は、失敗作を自ら打ち壊して、良いものを残すが、命は壊すことが出来ない。だから、静かに見守っておられる。家族や親友、恩師ですら知らない、傷ついたあなたの姿を見ておられたのだ。
 命は一人では背負えない。生きることは、軛のように、わたしと神さまとの協同作業であり、祈りと信頼がそれをつないでいる。

★ 2013年 5月19日 「望まれて、選ばれて」 マタイによる福音書 12章15〜21節

 全知全能の神に仕え、神に愛されるはずの僕が苦難に遭う。そして、その苦難を負いながら、僕は「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」ここでの「葦」とは、水辺に生える植物を弱い存在として例えている。
 つまり、苦難を知る者は弱さを知るということである。強いから弱い者を守るのではなく、苦しむから痛みを知り、弱さを理解する。その点では、僕になるために苦難を負わざるを得ないのかも知れない。
 同じように、「葦」を弱い存在として考えた人がいた。フランスの哲学者パスカルは、「人間は自然の内で最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかし、それは考える葦である」と語った。
 パスカルはまた、苦難に遭った。少年で天才と言われた彼は、18歳の頃から病を負い、生涯癒えることはなかった。その人生の後半で、「病の善用を神に求める祈り」を残している。
 病気である状態が常であった彼にとっては、完治を求める祈りはすでに何度も求めてきた。今、彼は癒しではなく、せめて病が神を信じるために一つでも意味があるように祈る。
 「わたしは今、自分が犯した罪のため、肉と霊とにおいて苦痛を受け、忍んでおります。この苦痛のゆえに、わたしをあなたの弟子として認めてください。」パスカルにとって苦難は十字架への道となり、痛みゆえに救いを確信する力となっている。
 なぜ、この病があるのかは分からない。わたしが病を選んだのか、病がわたしを選んだのか。しかし、パスカルは神がこの病を与えることを望み、選んだ。そう信じるときに弟子として生きることが出来るのだと。最後になっても、人間は「信じる葦」であり続けることが希望になる。

★ 2013年 5月12日 「また会いましょう」 ルカによる福音書 24章44〜53節

 十字架の死を乗り越えて、復活したイエスさまは弟子たちに会われたことが聖書に書かれている。では、その後、どうされたのか。ずっと、弟子たちと一緒にいたわけではなく、天へと帰る場面が描かれている。
 キリスト教用語では、この天へと帰る出来事を「昇天」と言う。それは先に天の国に帰り、私たちが迎えられる場所を整えるためであり、そのため、私たちが天へ帰ることを「召天」と言い、キリストに召されるのだ。
 さて、昇天は天への凱旋だけでなく、この地上での別れをも意味している。弟子たちはこれまで安心して頼ってきた師を送ることになる。しかし、この場面では動揺して悲しむ者も、それを拒んで留めようとする者はいない。
 淡々と進む物語とは裏腹に、別れを前に一つ成長した弟子たちの姿がここにある。それは何よりも、イエスさまが天へと帰ることが「離れる」という意味よりも、「天が自分たちに近づいた」と感じたからではないだろうか。
 恩師であるイエスさまが先に行かれる天の国は、いずれ自分たちもなすべきことを果たした上で辿り着く場所であり、模範を示すようにイエスさまは天へと昇られた、そう見送りながら確信していた弟子たち。
 私たちもまた、天に行き、その場所で再び会うことが出来る。これがキリストを信じる者が失うことのない希望であり、力であって、安らぎなのだ。私たちが残るこの地上は、命が去っていく場所であっても、天の国はその命が集められ、安心して休める場所なのだ。
 イエスさまは、ただ天へ昇られたのではない。弟子たちに手を上げて祝福しながら去って行かれた。祝福とは、良い言葉を語るという意味である。それは、「さようなら」という別れではなく、「また会いましょう」という約束ではないだろうか。そうして、寂しさを感じる私たちの気持ちを、優しく天へと向けてくださり、この地で生きる弱さに励ましを与えてくださっている。

★ 2013年 5月 5日 「願いは届いている」 マタイによる福音書 6章5〜15節

 主の祈り、それは主から頂いた祈りであり、主へささげる祈りである。イエス・キリストにつながる意味でもこの祈りは大切だが、何よりも、この主の祈りが持つ意味とは、祈りを宗教的社交辞令から外させたこと。
 主の祈りの内容から推測するに、ユダヤ教で一般的にされてきたカディシュの祈りを意識していると言われている。そして、それは良い意味で参考にしたのではなく、皮肉を込めて祈りが本来どうあるべきかを教えている。
 カディシュの祈りはこうである。カディシュとは、「聖」という意味であり、この祈りは長い読経や祈りの途中、祈りの最後にされたようである。 「御心のままに創造された世界において、大いなる御名が崇められ、聖められますように。御国が、あなたがたの生涯と、あなたがたの時 代において、またイスラエル全家の命あるうちに、一刻もはやく実現されますように。アーメン」
 聖書の信じる内容をよくまとめて表現しているが、この祈りが宗教的権威を持つ人々が大きな声で何か自分を高めるためのように語られる現状を見て、祈りとは何だろうかと考えたのが、イエス様である。
 そうして、天の「お父さん」という呼びかけから始まり、「あなたがた」ではなく、「わたしたち」が必要としているものをはっきりと分かる形で主の祈りを作られたのだ。
 このようにして、祈りを宗教的な社交辞令ではなく、人々の願いを伝える言葉の力として一人ひとりが祈れるようにしたのが主の祈りの意味であり、今まで伝えられてきたものなのだ。
 しかし、危惧することもある。主の祈りもまた、繰り返されることで意味を失い、念仏にもなるからだ。祈りの最も重要なのは、言葉の表現ではなく、誰が祈るのでもなく、それを聞いておられる神がいると知ることであり、その小さな叫びが聞き届けられていると知ることなのだろう。